我が国が生んだ最高のミューズ(音楽と詩の女神)天地真理さんについての短いエッセー byスケルツォ第4番 天地真理の写真

第10回 昭和のジャンヌ・ダルク 天地真理さん

ジャンヌ・ダルクはどんな人だったか(2)
-弁舌の達人ジャンヌ-


intermezzo39(4月15日)
大変な2月、3月、4月だった。


intermezzo38(令和6年1月28日)
最近の楽しみ
1、1月7日から始まった「光る君へ」が大変おもしろい。次回が楽しみでならない。チャングムみたいだ。
2、ショパンのワルツイ短調を弾き始めた。Jun Asai氏の演奏がとても魅力的で、こういう風に弾けたらいいな。



intermezzo37(11月23日)
Jun Asai氏に学ぶ
だいぶ前にダウンロードしたJunAsaiさんのショパンスケルツォ第4番の演奏にずっと学んでいる。それは最初の音から全く雑音の無いピュアな響きで、本当に感銘を受ける。
ピアノというのはこういう風に音をださないといけなんだな。
和音にせよ単音のメロディーにせよ、楽譜に書かれた音以外を鳴らしてはいけないんだな。
私はこれまでこの厳しい、当たり前のきまりに対する自覚が弱かったと思う。それなりに許容される速度、それなりに許容される強弱のダイナミズムが実現されていれば、ほんのかすかな雑音(出すべきでない音)が混じっても「まあ、いいかな」なんて甘く考えていた。
これは大間違いだった。
JunAsaiさんのスケルツォ第4番を聴いたら「雑音の混じらないピュアの音を出すのはピアノ弾きの基本であり常識だ」とわかりました。
最近やっとスケルツォ第4番の練習に戻れたので、曲の冒頭からJunAsaiさんにそっくりな音、そっくりな響きを出す練習を始めた。
あらためて思い知ったのだが、ピアノの鍵盤はかなりの立体性(でこぼこ)がある。白鍵を押した指先が垂直でない場合、あるいは白鍵の端っこだった場合、隣の鍵盤に触れてしまうことがある。あるいは黒鍵の間に指を置いて白鍵を押す場合、白鍵の幅が狭いので指が黒鍵に触れてしまう場合がある。そうすると出すべきでない音がかすかに鳴ってしまう。当然書かれた音符だけのピュアな響きにはならない。ピアノを弾くって本当に難しいなと思う。
JunAsaiさんのスケルツォ第4番のピュアな響きを聴いていると「ショパンもこういう響きを出していたのか」「ショパンの響きはこうもピュアなのか」なんて思ってしまう。
JunAsaiさんから学んだ「絶対にピュアな音」「鳴らしてはならない音は絶対に鳴らさない」という決意は他の曲にも向けられる。練習する一曲一曲に「ピュアな響き」を求めていく。この姿勢だと「ミスタッチしない」のは当たり前で、ミスタッチ回避のテクニックも向上するはずだ。
小さい頃からピアノを習い、ミスタッチの癖も初めからつかないようにし、必要な音だけを鳴らし余計な音は決して鳴らさない、といった訓練をしてきた人ならば、JunAsaiさんのような響きは容易に、あるいはごく自然にだせるのだろう。しかし、長年独学の私にはかなり困難な課題だ。相当な時間がかかるような気がする。
見方を変えれば、今気が付いたのは幸運なのかも知れない。ピアノという楽器の鳴らし方の基本中の基本を知ったからだ。ピアノという楽器の難しさもあらためて分かった。JunAsaiさんのスケルツォ第4番と出会って本当に良かった。

intermezzo36(9月16日)
最近の少し良いこと
最近は何かと忙しい。そんな中、いいことがそれなりにあるなと気づいた。
①指のひっかかりは今もすこしずつ小さくなっている気がする。ただなかなか治らない。ガングリオンのせいなのか腱鞘炎によるばね指なのかどうも判然としない。ひっかかりは最終的にもう治らないのかな。左手中指は依然として重い。でもピアノ弾く際はほとんど気にならない。だから治らなくても構わないかな、と最近は気が楽になっている。
②竜のひげの庭は、がんばってやってきたせいかようやく雑草に打ち勝ったようだ。十分にコントロールできる範囲に入った。去年の今頃は庭は雑草ぼうぼう。随分と進化したな。この辺りでは自慢の庭になりつつある。
③ピアノは表現の工夫が大分できるようになってきた。ミスタッチを防ぐにもいろんな方法があることがわかり、その都度試している。また、シューマン幻想曲の「おれはぼっちだ・・・」という感じの暗く絶望的な気分のフレーズも「レ、ラ、ラ、ソ、ソー、ファー」というメロディーがはっきり浮かび上がるようになった。これは右手小指の音を浮かび上がらせる場合、小指の側に手を傾けるのでなく右肘を外側に出して手のひら全体を沈める感じにするととうまくいくとわかった。
④今年の夏は暑かった。寿命が縮んだ気がする。93歳のばあちゃん共々よく乗り切ったと思う。



intermezzo35(7月11日)
もう少しで治りそうだ!ばね指
去年の12月頃に発症したばね指。今年になって4月には「手術して治すか」と決意した。この決意した時からどういう訳か、症状が少しずつ軽くなってきた。
そして大分時間が経ったが、今日7月11日時点でひっかかりが随分少なくなった。手術を決意した頃は「ガングリオンでなくて腱鞘の腫れ変形が原因のひっかかりか」と思った。腱鞘が原因ならばね指が自然に治る可能性はほとんど期待できないから。しかし、少しずつ引っ掛かりが軽くなってきたのはやはり原因はガングリオンかと思わされる。そして中指付け根あたりになにやらしこりが感じられる。やっぱりガングリオンだったのか。
でも自然治癒を一度はあきらめたが、少しずつ症状が改善している状況で、「もしかしたら完全に治るかも」という希望が生まれてきた。
話変わって、今、庭の雑草取りで悪戦苦闘中だ。しかし、もう少しで雑草を支配できそうなところまで来ている。頑張るゾー。



intermezzo34(5月5日)
ばね指が治るかもしれない!
去年の12月頃から左手中指を内側に曲げるとひっかかって元に戻せなくなった。それは突然やってきた。夜中、目を覚ましたら中指が内側にぐっと曲がったままだった。伸ばそうとしたが伸びない。「あれ、随分ひっかかっているなあ!」と驚いた。力を入れて戻そうとするとばねのように戻る。要するにばね指の症状になってしまった。
中指がこうなった原因はすぐ分かった。食器洗浄のパートの仕事を2年近くやってきて、仕事に慣れてきて今度は仕事を早く終わらせるため、洗浄作業で左手にかなりの負担(具体的には中指への圧力)をかけていた。そこに気づいてすぐ、中指に圧力がかからない方法を編み出して実行してきた。それでも引っ掛かりは続いていた。
ばね指は15年くらい前に左手親指で発症し整形外科で手術して治した経験がある。アルバイトの仕事で左手を打撃したことが原因だ。
今回の症状は、最初はばね指でなく「ガングリオンが出来て腱がそれにひっかかっているのかな?」と思っていた。ひっかかりが始まった頃、中指の付け根にガングリオンが出来ていて痛かったがいつの間にか消えた。それで「今度は手の平の方にガングリオンができたんだな、ガングリオンならそのうち消えるから中指のひっかかりも自然に治るな」と楽観していた。
ところが3月になってもひっかかりの症状が治らず本当に心配になってきた。親指の時はピアノを弾く障害になっていたので手術してもらった。今回の中指はピアノを弾く時大きな障害にはならないが指の動きが悪いというか重いので弾きづらかった。左手の音域の広い和音の時、分散和音で弾かなくちゃならないので、小指の打鍵に続いて中指の打鍵、そして中指を鍵盤に置いたまま手を回すようにして次の親指の打鍵となる。こういう動作の時、特に動きが悪くなって弾きづらかった。
でも「そのうち治るだろう」と楽観していたがなかなか治らない。「困ったなあ」。車のハンドルを握った時ばね指症状が気になる。ゴミ袋を縛る時ばね指になる。痛いわけではないが引っかかりが気になる。「どうしようかなあ、困ったなあ」。
4月10日頃、突然次の発想が浮かんだ。「ばね指だとすると腱鞘が歪んだまま固まって治らないかもしれない。親指のように手術するしかないか。整形外科に相談してみよう。」そうして手術の決意が出来た。
そしたら不思議なことが起きてきた。決意した次の日から、引っかかり症状が少し軽くなってきたのだ。「なんか少し軽くなったぞ!」「え!治るのか?」「じゃあ、ばね指でなくガングリオンなのか?」症状が軽くなってきた原因と思われるのが手の平の運動だ。「中指の引っかかりはばね指だな」と確信してからネットで調べていたら「ばね指はこうして治せる」とかの動画があった。期待はしていなかったが試にやってみた。手の平を広げるとかの運動が良かったのかな?なんか不思議だ。
5月初めの今、ばね指症状は少しずつ軽くなっている。このまま治るかもしれない。「手術やむなし」の重い気分から今は「様子見」の少し明るい気分!



intermezzo33(2月23日)
ついにコロナにかかってしまった!!
1月15日に扁桃腺が腫れて痛いような感じだったので日曜当番の耳鼻科に行ったところ、診察前に抗原検査をやられ、その結果、陽性と判定が出た。医者は13日発症、20日まで外出自粛して療養、保健所に連絡しておきますとのこと。自宅で横になっていたところ保健所から電話がきた。
20日まで午前と午後の2回、健康状態確認の電話に応えながら療養期間を過ごした。
今年の冬はきつい。大変だった。92歳の母が急に歩けなくなり、1日4回のヘルパー訪問で対応することになった。一時はもうだめかと思ったが体の状態がそのまま悪化することはなかった。訪問診療にしていたので看護師に母の状態を見てもらい、そして先生に早めに点滴を打ってもらった効果が出たようだ。とにかく大変な冬だ。



intermezzo32(12月11日)
「鳥海山の石と竜のひげの庭」めざして奮闘!
10月中旬から12月中旬まで約2か月かかって家の前の庭を手入れした。
亡くなった父が鳥海山の石を取り寄せて庭を作った。しかし親類が庭につつじをいっぱい植えてしまったため石が隠れて、鳥海山の素晴らしい石の魅力が消えてしまっていた。石を見えるようにしようと去年と一昨年でその迷惑なつつじをほとんど切り取った。
そして、今年の秋になって、夏場の雑草対策として庭を「竜のひげ」で覆って雑草を生えにくし、また生えたとしても草取りしやすく改造したのだ。
市販の竜のひげと玉竜、そして近所の山から取ってきた野生の竜のひげ、大葉竜のひげ、やぶらんを組み合わせてなんとか庭一面に植え込んだ。お蔭で竜のひげの生態に詳しくなった。雑草が一気に広がる4月中旬までに竜のひげがどこまで広がるか楽しみではある。雑草取りが少しでも楽になるといいな!



intermezzo31(10月12日)
ミスタッチ回避法を確立できた!
かれこれ3年くらいになるのかな。ミスタッチに悩み、克服に苦しんできた。しかし、ここにきてようやくミスタッチの回避に成功したと思う。
成功した理由は、「音を出す前にその鍵盤の上に指を置く」ことが確実にできるようになったことだ。
こんな当たり前のことが実践できないでいた。これは、小さい頃から連続してピアノを習って、一生懸命練習してこないと身に付かない習慣だと思う。楽譜を見ながら弾いていて楽しい、という素人主義では、この習慣は決して身に付かない。
「音を出す前にその鍵盤の上に指を置く」とミスタッチしないというのは、至極当たり前に思える。しかし、実際にこれができるかどうかは「当たり前」ではない。特に私はそうだ。常に意識しながらこの行為を行わなければならない。この行為を意識的に続けていると少しずつ、無意識に手が動き、指が出すべき音の上に乗っているようになる。
「音を出す前にその鍵盤の上に指を置く」ことができるためには、私にとっては次の2つがどうしても必要だ。
1つは、暗譜で弾くこと。暗譜することによって目が指と鍵盤に集中できるので指を意識的に移動させることが可能だ。
2つ目は、暗譜の過程で楽譜が頭の中に入って、楽譜の記憶が指だけでなく頭にも少し残っている状態でないとだめだ、ということ。
暗譜しても時間が経つと指で記憶したことがあいまいになり、「どの鍵盤だったかな?」なんて迷うことがある。♮シでなく♮ドだ、というのはやはり頭への楽譜の記憶だ。特に和音の一部だと、どういう和音かという記憶が生きてくる。こういう和音だったから♮ドであって♮シではおかしい。実際、弾くと変な音になる。
もう一つ。補足的なこと。曲によっては次の音が鍵盤上あまりに離れていたり、あるいは前の音の音価が相当短くて、指の着地と打鍵が同時にしか行えない場合がある。あらかじめ指を置くという余裕が全くない場合がある。そういう場合は、今の私は、次に打鍵する鍵盤を直前にしっかり目視し、着地と同時に打鍵となっています。なんともしかたありません。
まとめると、
①「音を出す前にその鍵盤の上に指を置く」ことが可能になるには、手や指を先々と移動させ正しい鍵盤の上に置けるという身体能力を身に付けなければならない。その身体能力を身に付けるために暗譜は大いに役に立つということ。目が楽譜と鍵盤の間を行ったり来たりしていては、身体能力の獲得は難しい。
②暗譜によって楽譜が指の記憶となった後でも、記憶の劣化は起こるので、暗譜の際の楽譜の研究が重要だということ。そして、暗譜で弾けても時々は楽譜単独の研究を継続しなければならないということ。
③着地と同時に打鍵という場合も、暗譜の力は有効です。正しい鍵盤の記憶があるからこそ、「同時に打鍵」ということが可能であって「楽譜を見ながら弾く」という習慣ではとても無理な話です。
多分、プロの方は小さい時からこのようなことを続けてきているんだと思う。かなり遅ればせながら私にも分かって本当にうれしい!

追記。最近の良かったこと。
Jun Asaiというピアニストの演奏に感心しました。スケルツォ第4番と24の前奏曲の7番まで聴いたのですがいい演奏だと思いました。 この方から学んだのは「いかに純粋な響きを出すか」ということです。私はこの点ではまだまだどころか、その方法さえ知りません。全くの素人だなと思います。ペダルの使い方も実際は本で学んだ程度。 今後はJun Asaiさんに学んで、一切雑音を出さない弾き方、純粋な響きになるようなペダルの使い方、それと、リズムの冴え(スケルツォ第4番のリズムの冴えには大変感心しました。是非、まねしたい!)この3つを研究して行こうかなと思っています。



intermezzo30(8月6日)
やっとミスタッチをなくせた!左手がんばれ!
訳あって久しぶりにショパン「24の前奏曲作品28第7番イ長調」を弾いてみた。前に暗譜はしていたがあまりに時間が経ったので楽譜の所々忘れてしまった。もう一度楽譜を見ながら弾いて再度暗譜した。ただ、楽譜を見ながらでも、暗譜でも所々ミスタッチしてしまう。それは以前から大体同じ音。この曲は楽譜は簡単だがなぜか完璧に弾くのは本当に難しい。
「こんな簡単な曲どうしてミスタッチするのか?」自分でも不思議で、じっくり右手と左手の動きを観察しながら研究してみた。そうしたら分かりました。「この曲は私が弾く際は、音を出す前に(=鍵盤を指が押す前に)鍵盤の上に指を載せておかなければ必ずミスタッチする。なので左手を活発に、すばやく動かして弾く前に鍵盤に指を載せることだ。」
この行為を徹底してやってみたらこの曲のミスタッチは完全になくなりました!小さい頃からピアノを習ったわけでなく大学1年の時から始めた私。そしてこれまで何度も長い中断期間があった。つまり、「弾く前に鍵盤に指をあらかじめ載せておく」こういう技術は小さい頃から連続的に長くピアノを学習してきた人には自然にできることなのでしょう。しかし、ほとんど独学、長い中断期間、という私にはこれまで身に付かなかった技術でした。
第7番はこの技術がないとミスタッチする可能性が高い。楽譜的には簡単でも演奏するには簡単ではないという曲なのでした。さらになぜ「弾く前に鍵盤に指を載せておく」ことができなかったのか?その理由もようやく分かりました。それは私の左手の動きが鈍いからだと。左手も右手と同じく動かなくてはならない。そこで私は「左手頑張れ!」と声をかけながら弾くことにしました。左手が素早く動くようにかなり強く意識する。こうすることで左手を弾く前に鍵盤の上に載せることができるようになり、ミスタッチがなくなりました。
右手の場合も同じで、左手で意識すると右手も「弾く前に鍵盤の上に指が載る」ようになりました。さらにプラスして「離れた鍵盤、隣と一緒に押しがちな鍵盤はしっかり目視する。指がまだ載らなくても目でその鍵盤を見、着地点を確認しておく」こともしっかりやるようにしました。こうしてミスタッチを完全になくすことができました。
思うに、「弾く前に鍵盤の上に指を載せておく」技術はピアノ学習の最初から身に付けないといけないのですね。特に大人になってピアノを始める人は最初に取り組む曲からこの技術が身に付くように努力しなければならないのですね。



intermezzo29(6月10日)
「ミスタッチ回避&メロディーはっきり聞こえる」方法を発見!
今、毎朝のピアノ練習をブラームスの「インテルメッツォ作品118の2イ長調」で始めています。この曲は手を広げる所が多いし、速度もアンダンテで速くないのでウォーミングアップに適した曲だと思います。また重音からメロディーを浮かび上がらせる練習にも良いです。
そんな訳でこの曲から練習を始めるのですが、ふとしたことから「メロディーを形づくる音を出す指を目視しながら弾くとその鍵盤のミスタッチも少なくなり、同時にメロディーも浮かび上がって聞こえてくる」ことがわかりました。もしかしたらこれはピアノを弾く時の常識だったかも知れませんが私の場合、ほぼ独学でやってきたのでこれまで知りませんでした。
別な視点から考えると、「ピアノを弾く時、目はどこを見ると良いのか?」という質問の答えにもなります。ただ、ピアノを弾く時、目はどうしても難しい箇所に行くし、離れた鍵盤に指が飛ぶ場合はその鍵盤に目が向けられます。いつでも連続してメロディーを構成する音(鍵盤)に目を向けるということはできませんが、「極力メロディー音を押す指を見る」というスタンスに立つとメロディー音のミスタッチ(私の場合は隣の鍵盤にも触ってしまうミスが多い)は回避でき、しかもメロディーを強調することもできるというメリットがあります。
「押す指を見る」といっても私の場合、動作が遅いので実際のところは「メロディーを構成する鍵盤を着地点として瞬時に見て、同時にその鍵盤に指が触る直前まで目で追って行き、目は次の音の鍵盤に向く」というレベルです。多分プロの演奏家はこんなことはせず頭の中に鍵盤を浮かべ、あたかも鍵盤を見ているように指を動かすのでしょう。でなければ目を閉じて演奏するなんて考えられません。私ももう少し余裕ができたらチャレンジしてみようかな。
シューマン幻想曲第1楽章が暗譜で通して弾けるようになりました。インテルメッツォの次は幻想曲第1楽章を通して弾きます。通して弾けることがまず自分にとって信じられないこと。この曲、本当に名曲ですね。この曲の練習で手が随分開くようになり、手や指の関節も柔らかくなり、16分音符を柔らかく弾くこともできるようになった。なにより「表情」というものを追求して弾けるようになった。この曲には強弱の変化や表情の指示がいっぱいあるので、それらをどのように表現するかを追求するのは本当に楽しく、かつ勉強にもなります。
最後に。
今日、大谷翔平選手が圧巻のピッチング(7回100球被安打4、1失点6奪三振、100マイル連発)とセンターオーバー12号逆転ツーランホームランで、14連敗の泥沼でもがき苦しむエンジェルスを救いました。大谷選手の2刀流がチームを救いました。チームの打撃力の現状からはエンジェルスの連敗脱出は「2刀流が力を発揮するしかない」という極限の状況を迎えていました。そして大谷選手はその極限の状況で2刀流の真価を発揮したのです。これは誰もが何かに書き留めたりして「後世まで伝えたいな」と思えるほどの出来事です。私も心の底から初めて、大谷選手の野球は本当に「異次元だ」と深く感銘しました。
大谷選手、苦しむエンジェルスを救ってくれてありがとう。そして異次元の野球を見せてくれてありがとう。



intermezzo28(令和4年4月16日)
ユリアンナ・アヴデーエワさんと再会!
ロシアのウクライナ侵略が始まった2月24日からウクライナが心配で毎日、ネット情報をたくさん見ています。私のできることとしてウクライナ大使館に1万円寄付しました。
最近はキエフをキーウとウクライナ語で呼ぶことが定着しましたが侵略当初は首都をキエフと呼んでいました。クラシック音楽ファンなら「キエフ」という言葉からムソルグスキー「展覧会の絵」の「キエフの大門」を連想するのは自然です。youtubeでウクライナ情報を見ていたところ、日本の若いギタリストのギター版「キエフの大門」がウクライナ国民に捧げられていました。そこで原曲のピアノ版「展覧会の絵」の動画を探したところ、キーシンの演奏を見つけました。そしてユリアンナ・アヴデーエワさんが2019年6月にサンクトペテルブルグで演奏した「展覧会の絵」を見つけたのです。久しぶりの再会です。ここ3、4年は自分のピアノ練習で頭がいっぱいで過去にダウンロードした名演奏家の演奏を聴いている時間がありませんでした。ウクライナ情報を求めていなければアヴデーエワさんの「展覧会の絵」には出会えなかったかも知れません。
ただ、現在のウクライナのことを考えると、ロシア人のアヴデーエワさんやキーシンの今後の境遇には哀しい思いがします。
というのは、キーシンは反戦の芸術家署名に名を連ねたようですし、ショパンコンクール優勝、西側での幅広い活動と西側から高い評価を受けているアヴデーエワさんがロシアのウクライナ侵略を支持するとはとても思えないです。哀しい思いがするのは私の心に湧き上がった、言いようのないロシア拒否感情から来ているようです。先日の「北海道に権利ある」というロシア側の発言でたちまちロシア拒否感情が湧き上がりました。一人の日本人の私さえそうなっているので、よりウクライナに近い欧米でのロシア拒否感情は相当なものだと思います。ロシアの音楽家は制裁によっても、そして世界の多くの人々の心に湧き上がったであろうロシア拒否感情によっても西側での演奏はこれからかなり長い期間できなくなるような気がします。
反戦の姿勢を明確にしたキーシンであっても日本の招聘元がキーシンの演奏会を国内でやろうというのはだいぶ後のことになるのではないでしょうか。私個人の今の気持ちだとどんなに素晴らしい演奏家であってもロシア人の演奏は今はそんなに聴きたい気がしないです。本当に哀しいことです。ロシアの音楽家はウクライナでの戦争が終わらない限り、さらにロシアが敗北し現政権が倒れたとしても今後数年間、あるいは数十年間は欧米、日本などには招かれないのではないかと思います。キーシンやアヴデーエワさんは可哀想ですね。
ウクライナでの戦争が終わったら「展覧会の絵」のキーシンとアヴデーエワさん、それぞれの演奏の特徴を述べてみたいと思います。ウクライナの勝利で早く終わってほしいものです。一昨日、ウクライナ軍がロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」にネプトゥーン2発命中させ沈没させた、との情報が入りました。これは事実のようです。ウクライナの勝利を予感させるような出来事です。



intermezzo27(令和4年2月7日)
今年の冬は寒い!
そのためかアップライトピアノがビリついて困っている。
ピアノがひどくビリつくようになったのは、1月28日。隣接する3つの鍵盤と、それから離れた2か所の鍵盤のビリつきがひどい。そこで調律師に来てもらって調律してもらった。
というのは少し前、ピアノを弾いている時、中で金属が高い音を出して落ちるような音がしていたのでひょっとしたら弦が切れたのかなと思ったので。でも普通に調律してもらってそんな報告はなかった。お昼近くになり調律も終わり、問題の鍵盤からはマイルドな音が出ている。
「ああ、良かった!」と思っていたら、翌日の早朝練習を始めたらまた、問題の隣接3音がビリついて音楽にならない。ネットで相談してみて下前板を外して見たら、針の先のような金属(8mm)がピアノの底板の所に落ちていた。これが原因かどうかは全くわからない。
そしたら、翌日の朝から問題の3鍵盤は突然ビリつかなくなった。また、「ああ、良かった」と思い、それでも毎日3鍵盤辺りのビリつきの有無を確かめながら練習を続けていた。「もう大丈夫」と安心した。
ところが今朝(2月7日)練習しようと鍵盤のチェックを始めたら、今度は問題の3鍵盤、その1つ下のシの音からさらに下のソの辺りまでびっしりとビリつき。また、ずっと上の2点二の音もビリつき。ビリつく鍵盤がずっと広まって、ピアノを弾くどころではなくなった。
どっかと共鳴しているのかといろいろ点検していると、2点二は譜面台と共鳴していることがわかった。しかし、他は全く分からない。ピアノは廊下にあって冬はファンヒーターで暖を取りながら練習している。今朝の廊下は0度近く。練習始めた時は10度ちかく。「困った、困った」と思いながら練習していると広範囲のビリつきがいつの間にか消えた。室温は15度くらい。譜面台と共鳴していた2点二の音は譜面台とも共鳴しなくなっている。
そこでようやくビリつきの原因らしきことがわかってきました。多分、温度差です。
低温であれ、中温であれ、室温がずっと一定ならば多分ビリつきは生じなく、室温が少しずつ上昇するとピアノを形つくっているすべてのもの(弦、弦を巻くネジ、響板、ちょうつがい、譜面台、ピアノの中のあらゆる金属、あらゆる板の接点、、、)の膨張率が違うため、均一な膨張でなくバラバラな膨張なので、ぴったりくっついた接点に小さな隙間が発生したり、あるいは本来あるわずかの隙間が膨張によって閉じてくっつく、などそんなバラバラな変化、一時的変形といったことがピアノで発生して、普通は共鳴しない部分が共鳴するようになって鍵盤がビリつくのかも知れない。特に今年のような寒い冬、廊下で暖房しながらピアノを弾いている際に起こる現象かと思います。なにせ室温がかなり変動します。
今の所、原因はこれくらいしか想像できないが、ちょっと前は原因に全く見当がつかず、絶望的な気分になっていたので、気持ちはかなり楽になりました。それは、デルタ株までは不安でしょうがなかったがオミクロンの毒性を知ってからはコロナが全く怖くなくなった時の気分に似ています。
なお、ビリつき恐怖で問題の3鍵盤点検・確認のため、きまった曲のきまった部分を練習しつづけたので、その部分の弾き方がやっとわかったとか、前より楽に、速く弾けるようになったとかのご褒美もありました。


intermezzo26(12月12日)
祝 完全暗譜!
シューマン幻想曲の第1楽章を全部、暗譜しました。もちろん速く弾けない所もかなりありますが、とにかく第1楽章全部を楽譜を見ないで弾けるようになったのは信じられないような快挙です。久しぶりの快挙といった方が正しいかな。というのはショパンのスケルツォ第4番も2年くらい前に完全暗譜しているので。
幻想曲第1楽章の練習で随分成長した気がします。どういう点がというと、

①楽譜の読み取りが難しかったので、ほぼ読み取って完全暗譜までできたというで、今後どんな曲の楽譜も読み取れる自信がついた。
②幻想曲第1楽章には2つのメインテーマとそれぞれに付随して独創的パッセージが展開される所があるのですが、この長い部分が、Im Legendentonの部分が終わってから、今度は長2度下で繰り返されます。このような音楽体験は初めてだったので、これを乗り越えられたことでかなり自信がつきました。
③ピアノ奏法で技術的に随分上達したように思います。弾き方を工夫したり研究しなければならない箇所があまりにたくさんあって、1つ1つ辛抱強く練習し克服できたことで結果的に指が柔らかくなり、指が開くようになり、強い打鍵、弱い(柔らかい)打鍵も区別してできるようになったりと、技術的に随分上達した気がします。シューマンありがとう。

第1楽章では、暗譜で弾けるものの未だに全く音楽的になってくれない残念な箇所があります。それはIm Legendentonの中で、最初の im tempo の部分でスタカートの8分音符が全然つながらない。続く重音と分散和音がからみあった部分ではメロディーが響きの中に埋没してしまい全く浮かび上がらない。さらに続いて espress. で変イ長調のメインテーマが出てくるのですが、これも左手の伴奏は変わっているし、右手の分散和音と言うか装飾音というか変わっていて、両手で弾くと全く音楽にならない。
以上の部分は必死に練習しているけど本当に音楽になってくれない。第1楽章で一番難しい部分ではないかな。今日の練習でほんの少しだけかすかな光が見えたような気がしたので良かった。ここは辛抱強く頑張らないと乗り越えられないのは確かです。


intermezzo25(10月13日)
夢のようだ。
今、シューマン幻想曲の中で最も劇的でカッコ良く、古今のいかなる作曲家もシューマンのこの独創性には及ばないという所を練習し始めました。その部分はIm Legendentonで右手3連符、左手16分音符の組み合わせで疾駆するようなパッセージが出てきますが、このパッセージの終わり、幻想曲で初めてfff(fが3つ)が出てくる小節から数えて9小節目から12小節までの部分です。
この部分は過去ずっと名演奏家の演奏を聴きながら「いいなあ!!」と思っていた部分です。ここは聴くことしかできないと思っていた。まさか自分がこの部分を弾きはじめるとは!!本当に夢のようだ!
幻想曲の16分音符を抑制された小さな音で滑らかに弾く練習をしていると手が柔らかくなってくる気がする。また読解が難しい所がたくさんあるので楽譜の勉強にもなる。ただ重音からメロディーを浮かび上がらせるのは本当に難しい。
6月から9月まで生活上では困難な日々だったがなんとか乗り越えた。この4か月間は幻想曲ばかり弾いていた。今、4か月の困難を乗り越えたら気持ちに余裕ができて以前弾いていた曲をまた弾きたくなってきた。ドビュッシーのパルナッスム博士の始めの部分を久しぶりに練習した。幻想曲のおかげか16分音符が以前より抑制された音で滑らかに弾けるようになっていた。
ショパンスケルツォ第4番もまた弾いてみた。楽譜的には幻想曲よりわかりやすい。でもショパン絶頂期の曲らしく初めから転調の連続だ!やっぱり凄い曲だ。弾き直してみたら和音の捉え方が間違っていたためペダルの使い方を誤っていた所があった。冒頭から98~100小節はロ長調Ⅴ7なのでペダルは踏みっぱなし、101小節はロ長調主和音だからプダルを踏み直す。102~104はやはりロ長調Ⅴ7だからペダルは踏みっぱなし105小節で踏みなおす。119と120小節はロ長調の減7なのでペダルは通してよい。121小節は嬰ハ短調の減7なので踏み直す。こんな感じでスケルツォ第4番を再び弾きはじめました。



intermezzo24(8月22日)
銀メダルだな!
オリンピックが終わってなんか寂しい。
日本女子バスケの銀メダルが一番うれしい。
2回目のワクチン接種終えてぐっすり眠って目が覚めた朝、自分にもメダルやれるなと思いつきました。
私のもらえたメダルは日本女子バスケと同じ銀メダル。渋い感じで少し控えめに輝く銀メダル。私の種目は独学ピアノ。
私の独学ピアノで銀メダルに値する技は「完全暗譜の方法」。これによってどんな難しい曲でも暗譜できるようになった。
今、毎日シューマンの幻想曲を練習している。この曲をどうやったらミスタッチゼロで音楽的に美しく弾けるのか、反問し、研究する毎日。左手の16分音符の滑らかでかなり抑制された弾き方、左手がピアノ半分くらいの距離を瞬時にミスタッチせずに移動しなければならない難しさ、右手はオクターブ和音、2声部の弾き方など難しい点が多い。ピアノの弾き方という点ではショパンのスケルツォ第4番より難しいと思う。曲が魅力的なので毎日弾いていても飽きないし、弾き方を研究すればするほどピアノが上達するという確信がある。だから毎日同じ部分を練習できるのだな。



intermezzo23(3年7月6日)
ミスタッチゼロの取り組みに思いがけない副産物!
現在は、シューマンの幻想曲第1楽章だけを練習する毎日です。最初から「Im Legendenton」37小節までの所をミスタッチしないように毎日、何回も弾いて練習しています。そしたら、思いがけない副産物を得ました。
それは「曲を仕上げる」ことの意味というか、やり方というか、または、「仕上げるというのはこういうことなのかな?」この辺りの感じがつかめてきたことです。これは自分の努力がもたらした思いがけない贈物です。いままではとにかく「音楽的に弾く」という意識だけで空回りしていたかも知れません。そこに「仕上げる」という感覚が生まれてきたのです。とっても嬉しいです。
また、第1楽章の冒頭の左手16分音符を何回も弾いているうち、右手オクターブのメロディーがちゃんと聞こえるように、左手16分音符を抑制した音で滑らかに弾くことが少しずつできるようになってきました。これまでは右手と左手の音量バランスの取り方というのがよくわからなかったし、できなかった。ところが幻想曲を毎日練習することで音量バランスの取り方が少しずつわかってきた。これも嬉しいことです。シューマン、ありがとう。
しかし、幻想曲というのは本当に名曲ですね。弾けば弾くほど実感してきます。ピアノの魅力的な音響が最高です!ピアノを弾く人にとって本当に嬉しい曲ですね。


intermezzo22(3年5月4日)
ミスタッチが減ってきた!
この間、ずっとミスタッチ撲滅に取り組んできた。シューマンの幻想曲、ショパンのスケルツォ第4番、ブラームスのインテルメッツォ118の2、この3曲をミスタッチしないで弾く練習をずっと続けてきた。仲道郁代さんの弾き方を参考にしてからミスタッチが減ってきたような気がする。
①小指、親指が隣の鍵盤に触らないように立てる。特に手をオクターブで広げる時。これは仲道郁代さんに学んだ。
②森本麻衣さんの「ピアノは触ってから弾く」の実践はかなり難しい。速い速度の場合、私の体の動き、腕の動きからすると「触ってから」というのがほとんどできない。ピアニストというのは腕や体の動きが本当にすばやく、敏捷なんだなあと思う。
③それで、私の場合、ミスタッチが減ってきた一番の要因は「次に押す鍵盤をあらかじめ見ておく」ことができるようになったからだと思われます。器械体操の選手が着地する前に着地点をしっかり目視することと同じですね。つまり、私はこれまで次に押す鍵盤をしっかり目視しないでカンだけでその鍵盤の方に指を伸ばして押していた。だから隣の鍵盤ばっかり押していた。そうでなく、次に押す鍵盤をしっかり見ることで鍵盤の位置を頭に焼き付ける。これができるようになったのでミスタッチが減ってきたと思う。ただし、まだ弱い点があって、あらかじめ目視しても次の鍵盤がかなり離れていた場合、指を押す段階で指が鍵盤から滑り落ちてしまう。特に黒鍵で。そのミスをなくすために取った対策は、「指を鍵盤に伸ばし、近づけ、触る」だけでは弱いので、「指だけでなく手の甲もその鍵盤に近づけて指が確実に着地するようにする」。これはまだ実験中だがうまくやれた時は指が滑り落ちることはなくなった。
④そしてミスタッチをしない一番の基本はやはり楽譜をしっかり暗譜し、次に押す鍵盤の音名をしっかり記憶しておくこと。「次は♯ソだな、♭ミだな」のように。全部の音をこんな風に記憶するのは不可能なので、ミスタッチしてしまう音だけは音名をしっかり記憶し、その記憶から目当ての鍵盤に指がちゃんと着地するようにする。
以上の4点を手掛かりにミスタッチ撲滅の苦闘を続けてきた成果がはっきり出てきたように思われます。ピアノの上達は、ひとえに「研究と努力」に尽きると思います。


intermezzo21(令和3年2月11日)
ただ今、苦闘中!
どうしてもミスタッチが直らない!そこでミスタッチ撲滅に取り組むことにしました。森本麻衣さんの「ピアノは触ってから弾く」を追求するがそれでもミスタッチが直らない。そんな中、最近、you tube で「名曲探偵アマデウス」を見ていて、仲道郁代さんの演奏の仕方から大変参考になるものを発見しました。それは、
①小指が隣の鍵盤に触れて余計な音を出さないように小指をしっかり立てるか、黒鍵から離れて白鍵を押す。特にオクターブの押さえで役に立ちました。
②手を鍵盤の奥、手前と、いろんな位置に移動させて弾いている。これは最も効率のいい位置で鍵盤を押す、また、ミスタッチをしない位置で押すことをやっていると思われます。
以上の2点を頭に浮かべて今、練習しているところです。
そして今、苦闘しているのが、ショパンのスケルツォ第4番の始めから121小節までの部分で、この部分は今まで何度練習してもミスタッチばかりでした。これではいけないと思って、ミスタッチ撲滅と自分の最高速度で滑らかに弾くことを目指して、血がにじむような練習をしています。その甲斐あってか、少しずつ良くなってきました。
もう一つ苦闘しているのがシューマンの幻想曲で、始めから28小節までの部分で、その中でも難しすぎる22~28小節は本当に苦闘しています。左手の16分音符を自分の最高速度で弾こうと思うと、右手のトリルもやっぱりその最高速度でしか弾けない。つまりトリルは16分音符のトリルとならざるをえない。それがトリルと言えるのか?いろいろと研究した結果、22~28小節の部分は16分音符の「ゆっくりトリル」で弾くしかないとわかりました。そしてその方針で音出しをしてみたところ、無理なく、滑らかに弾けるので、私にとってはこれが正解で、「ゆっくりトリル」を「遠くで鳴り続ける鈴の音」の感じで弾けたらいいのかな、と結論しています。
スケルツォ第4番にしろ幻想曲にしろ、今までこんなに突っ込んで練習したことはなかった。だから、この努力を続ければ何かいいことがあるかもしれない。それに期待しようと思う。


intermezzo20(12月23日)
井上先生は名医だ!
3週間くらい前、不注意で右腕の下の辺りに80度くらいの熱湯をかけてしまった。あまりの熱さに驚いて台拭きで熱湯をふき取ろうとこすったら皮膚がべろっとむけてしまった。熱湯やけどは生まれて初めてのことでどう応急手当したらいいかもわからず、皮膚がむけただけで特に痛みはないため、自然に治るのかな、と思ってドラッグストアで買ったやけど跡を直すジェルらしき薬品を塗って2日くらい放っておいた。ネットでやけどの治療法を調べていたらやけどはすぐに医者に見せなければならない、整形外科がいい、とか書いてあったので、井上整形外科に行って診てもらった。そしたら2度のやけどとのこと。重傷ではないが跡が残るかもしれないとのこと。約2週間通院してガーゼとかとれた。井上先生は「きれいに治ったようだ」。井上先生ありがとうございました。3週間くらい経った今は、赤黒くぶちた部分も少しずつ薄くなり、患部はもとの皮膚に戻りつつある。やけど跡も残らない感じだ。井上先生は本当に名医だ!



intermezzo19(10月28日)
キーシンはホロヴィツの再来だった!
前回、シューマン幻想曲第1楽章の白眉の部分のイメージが出せている演奏として、第1にホロヴィッツ、第2にリヒテルと紹介しましたが、キーシンのライブ録音を聴いて大変感心しました。第2位はキーシンですね!
そうしたら随分と昔、中村紘子氏がNHK/FMで「ソ連ではホロヴィッツの再来と呼ばれている新人演奏家がいて、キーシンという人だ」と語っていたのを思い出しました。私はそれ以来、ずっとキーシンに注目していましたがオンエアされる機会も少なく、中村紘子氏の話を実感できずにいました。中村紘子氏は「再来」の内容を「テクニックはもちもんのこと、音がホロヴィッツに近い」というような内容を話されていたような幽かな記憶があります。
今回、白眉の部分の演奏比較としてキーシンのライブ録音を聴いたところ、「表現はもちろんのこと音もホロヴィッツに近いな」と感じました。やっぱり中村紘子氏が言う通り「キーシンはホロヴィッツの再来だった」のかも知れません!
話が変わりまして、最近、大変いいことがありました。バッハ平均律第2巻第1曲ハ長調のプレリュードとメンデルスゾーンヴェネチアの舟歌作品19の6の2つを暗譜で弾けるようになりました。バッハのプレリュードの方は各指の完全な独立と脱力にとても良い曲で、最近はピアノ練習の最初に弾くようになりました。そういえばショパンはピアノ練習の最初にバッハを弾いていたとか。もしかしたらこのプレリュードだったかも知れません。
バッハの次にヴェネチアの舟歌を弾くんですが、この曲は私が一番苦手だった「ピアノを歌わせる」という技術の習得に大変役立っています。短い曲の中でpp、p、mf、sfの付け方も練習できます。短い曲の中で和音の変化も激しく、難しい和音の変化です。何の和音か特定できない所があります(第24小節の4、5、6拍のところ)。短く簡単な曲なのに、こんなに和音の変化を注ぎ込めるのはメンデルスゾーンがやはり天才だったからですね。



intermezzo18(8月26日)
シューマン幻想曲第1楽章の白眉について
なぜわざわざ白眉なんて言葉を使うかと言うと、これから取り上げる部分は第1楽章の中でもっとも秀逸な部分だと思われるのですが、そのように評価されることがほとんどないからです。
私の言う白眉の部分とは第58~62小節です。幻想曲第1楽章は聴きどころの大変多い本当に傑作と言って良い楽章ですが、この第58~62小節はイメージの喚起という点でシューマンの音楽表現において大変優れた箇所だと思います。
第58~60小節は私にどんなイメージを喚起するかというと、こうなのです。
まず第58~60小節のイメージは、「宙からきらめく光の粒がいっぱい降ってきた!ああ、粒がきらめきながらゆっくり消えていく!」
第61小節のイメージは、「なにやら輝くものが静かにこっちに向かってくる!」
第62小節のイメージは、「あ、クララだ!クララだ!クララが私に微笑んでいる!」
と、こういう感じです。ただし、これは私の独創ではありません。ホロヴィッツの演奏がまさしくこうなのです。私のイメージはホロヴィッツの演奏の反映にすぎません。第58~62小節をこのようなイメージで演奏するのは第1にホロヴィッツ、第2にリヒテル、この二人しかいません。
各小節をもう少し分析的に見てみます。
前段の第49~52小節は、暗く落ち込んだ絶望的な気分です。全く元気が出ずそのまま死んでしまうかのようです。そして第53~57小節では、なにやら悲痛な感情、抑えられない感情と言ったものが激しくつのってきます。そしてこの直後から白眉の部分が始まるわけです。
第58小節は、前の小節のfを受けついだまま3回下降する音型が両手のユニゾンで、少しずつ減音しながら。これは「きらめく光の粒がいっぱい降ってきた!」のイメージにぴったり。
つづく第59と60小節は、dim. ritard.---p--- となりながら下降音型の中に不協和の響きを加えてきます。これは第58小節が両手のユニゾンであったのを59~60小節では左手を1拍分遅らせて開始するようにしたので、第59小節では右手♮ソ左手♮レの完全4度、右手♮ソ左手♭シの短3度、右手♮レ左手♮ラの完全4度、右手♮ド左手♮ソの完全4度、右手♭シ左手♮ソの短3度をペダルを踏んだまま響かせることとなって当然ながら、なにやら神秘的な不協和の響きになっているようです。第60小節では♮ファと♮レ、♮ファと♭ラの短3度連続、つづいて♮レと♮ソ、♮ドと♮ファの完全5度の連続、そして極めつけの増4度(右手♮シ左手♮ファ)が同一ペダルで響くので本当に神秘的な感じ、具体的イメージとしてはきらめく光の粒がゆっくり消えていき、また暗闇が訪れるのかという恐怖の感情が湧いてくる、そんなイメージです。
この第58~60小節は長い第1楽章ではほんの一瞬の経過句にすぎません。そのためここをクローズアップする人は誰もいないようです。しかし、この経過句にはシューマンの独創が表れていると思います。このシューマンの天才と言うべき独創をその通り演奏で表現してくれたのがホロヴィッツだと思います。この経過句は後に出てくるクララのテーマを導く本当に重要な経過句になっています。
第61小節は右手アウフタクトで4分音符の♮ドが4つ、これは誰かの静かな歩みを思わせます。また、左手の♮ラ→♭ラ→♮ソの半音階進行はこの小節でヘ長調のⅤの和音を導く役割を担っており調性的には明瞭でない点、神秘的な雰囲気を醸し出しています。よってイメージ的には「なにやら輝くものが静かにこっちに向かってくる!」という感じになるわけです。この小節で a tempo に戻す演奏もありますが、少しテンポを落としてゆっくり目の方が良いと思います。
第62小節、cantando(歌いながら)の指示のもと、クララのテーマが登場します。調性はしっかりヘ長調。「苦しむシューマンに向かって微笑む、輝くようなクララ」の登場です!第29~40小節からわかるようにシューマンは本当に怒りと悲しみに悶えています。目の前が真っ暗になり絶望に沈みます(第49~52小節)、また怒りと悲しみで感情が高ぶります。シューマンは暗い部屋で泣いていたことでしょう。そんな中、宙から光の粒がたくさん降ってきたのです。そして光の粒はきらめきながらゆっくり消えていき、また絶望か、と思ったとたん、何かしずしずと輝きながら近づいてくるものが・・・。現れたのはシューマンに向かって微笑む光り輝くようなクララ!
まあ、以上は私の想像、妄想かもしれませんが独り苦悶するシューマンの実像の描写と言っても、決して過言ではないと思います。そういう点で第58~62小節は第1楽章の中で白眉だと思うわけです。そして前述したように、この部分を「白眉だ」といつも思わせてくれるのがホロヴィッツの演奏なのです。


intermezzo17(7月1日)
森本麻衣さん、ありがとう!
コロナ関連の動画をいろいろ見ていたら、森本麻衣さんの「ピアノは触ってから弾く」という動画が紹介リストにあったので見てみました。
大変勉強になりました。そういえば、ピアノを初めて習った頃なんか教えてもらった気がします。
早速、森本麻衣さんの指導通り弾いてみました。すると今まで弾く度にミスタッチしていた箇所がミスタッチなしで弾けるようになりました。特に役に立ったのがドビュッシー「子供の領分」の「人形へのセレナード」の冒頭3~7小節です。ここの左手は難しい。
左手の4度下の前打音付ソ、ド、ファ・・・の部分を森本麻衣さんの指導に従って、可能な限り指を次に鳴らすべき鍵盤の上に置いて触ってから指を押すようにしました。この部分は左手を素早く移動させないとだめな所なので「しっかり触ってから押す」というような時間的余裕はない、だから実態は、ほとんど「触ると同時に押す」だが、極力「あらかじめ触ってから押そう」という感じで頑張ってみました。これができるようになるにつれてミスタッチがなくなったのです。森本麻衣さんの言う通りです。
よって、「森本麻衣さん、ありがとう」なのです。
最近、ピアノを弾くことに関して嬉しいことがあります。ようやくシューマンの「幻想曲」とバッハの平均律ピアノ曲集第2巻第1曲ハ長調に取り組むことができました。これは、今後のピアノ曲学習計画に基づいたもので、私の残りの人生の期間を考えて、「幻想曲」は第1楽章のみ、バッハは第2巻ハ長調のみ完全に暗譜して弾けるようになろうと決めたのです。
どちらの曲も大分前に楽譜を見ながら音だしをしていた曲ですが、最近ようやく本格的に取り組めるようになったのです。これはショパンのマズルカ作品33の4ロ短調を完全に暗譜して弾けるようになったので、「さて、今後残りの人生、何を弾けるようにして終わろうか」と今後のピアノ曲学習計画を立てたのです。そしてこの学習計画に基づいて開始する最初の曲が「幻想曲」と「平均律」なわけです。
気分としては将棋を覚えた子供が初めて王手をかけて嬉しくてしょうがない、と言う感じの嬉しさです!とにかく嬉しいです。まあ、バッハは難しい!4声のポリフォニーなんて私に果たして暗譜できるのか、と思いました。でもこれから頑張ってみます。


intermezzo16(5月13日)
ネズミの警告
今日は音楽堂でグランドピアノ練習をやる日だったが、新型コロナウィルスで音楽堂は5月31日まで閉館となってしまい練習できない。そこで我が家を襲った大事件であるネズミ騒動について語ろうと思う。
去年の今頃は家の中に住み着いてしまった大きなくまネズミの退治で大変だった。思えば1月頃から自宅1階に侵入し住み着いたようだ。その大きな理由は家の中に食べ物がむき出しで放置された状態だったため、ネズミにとってとてもおいしい食糧が沢山あったからだ。まさか家の中にネズミが住み着いているとは夢にも思わなかった。ネズミは初めは警戒してかなり慎重に動いていたようだ。しかし、次第に大胆になり家の中で活発に活動するようになった。部屋の外で夜、ちょっと物音がしても「風が吹いているのかな」「ばあちゃんが起きたのかな」くらいにしか思わなかった。4月下旬、ついに1階にネズミがいることが発覚した。仏壇の方で夜中大きな物音がした。そして朝だったか昼だったか「仏壇のラクガンがかじられている!」とばあちゃんが教えてくれた。仏壇を見たところ、灯篭は倒れているわ、水はこぼれているわ、灰は散らばっているわ、驚くことに仏壇の細工の柵までが壊されていた。夜中の大きな物音はこれだったのだ!
これまで家の中にネズミの侵入は2回あった。金魚のエサをかじったりしたがすぐに出てこなくなった。発見した天井付近の侵入口を直ちに塞いだ。今回の侵入は塞いだはずのところに大きな穴があり、ここから侵入したとわかった。前回と同様、小さなネズミだろう、多分もう外に逃げたなと思って再度天井付近の穴をしっかり塞ぎ、食べ物の放置はやめ(テレビの陰、電気こたつの中などにチョコレートの包紙がいっぱいあった。2、3か月かけてネズミが夜中に食べた跡だ。ネズミがすぐ近くでこんなに活動していたなんて!!)、安心していたところ、しばらくするとまた、家の中で再び怪現象が起こった。風呂場の石鹸が消えたり・・・そして台所の米袋がかじられたことがわかった。ネズミはもういないハズなのに・・・
ネズミが米袋を齧ってからまだあまり時間が経っていないので台所のどこかに隠れているにちがいないと思った。外から包囲網を作り順々に狭めていく作戦で、まずは客間の神棚を封鎖したり、仏壇の陰とかに隠れられないようにし、廊下、2階、自分の部屋、ネズミが隠れる場所を全部なくしてから、いよいよ台所の捜索を始めた。板とか買ってきて家具類、電気製品類の陰に逃げ込まれないように塞いだりしながら、1つ1つ隠れられそうなところをつぶしていたら、ついに出てきた!ものすごい速さで逃げまわる!しかも大きなネズミ!勝手口と玄関を開けておいたので、やっと台所から出て行ったときは、もう外に逃げたなと思った。勝手口の床に新しい糞が落ちていたから。ネズミとの大変な格闘をした後だったので、今度こそ大丈夫だと心底思った。しかし、ちがった。
掃除機をかけたはずのところに糞が落ちている。変だな、吸い込みもれたのかな、なんて思っていた。そして、午前4時頃、トイレに行く途中、客間の電気をつけたところ、大きなネズミが障子を音を立てて駆け上がって、神棚の方に消えた!座敷テーブルを立ててそこに上がって神棚をみたが、神棚はすでに封鎖されている。どこに消えたのかな?と神棚をいろんな角度から調べたら、人からは死角で見えないところに小さな隙間があった!ここから神棚の中に消えたのは間違いない!すぐにその隙間を徹底的に塞いだ。台所を脱出したネズミは外に逃げたのではなく、封鎖された神棚の中に隠れていたのだった。つまり家の中でネズミが隠れられるところはすべてなくしたはずが、たった一か所だけ残っていたのだ!ネズミはここを隠れ家にして家の中で食べ物探しをしていたが食べ物の放置は完全にやめていたので(後でわかったことだが)客間に置いてあったアルバムをかじっていたのだ。そこに私が突然現れたという訳だ!
その後、神棚の中で物音はしなかったが私はネズミを神棚のなかに閉じ込めたと確信した。物音がしないのは封鎖するまえに中に粘着シートを1つ仕掛けておいたから、突然暗闇の中に入らざるをえなかったため、賢いネズミといえどもそれに捕まってしまったと想像される。そして衰弱し餓死したものと思われる。その後半年くらい経った冬の始め、ついに外から天井裏に侵入する穴と言うか隙間を発見した。そこは床の間の床下で、大地震のせいか板がはずれていてネズミが侵入できるようになっていた。そこから入って床の間の外側でかつ家の外壁の内側の狭い空間を登って天井裏にたどり着き、そこから1階に下りてきたという訳だ。家の基礎はしっかりコンクリートで作られているのでどうやって床下に入り天井裏までいくのが本当に不思議だったが、コンクリート基礎の外側にある床の間の床下からの侵入だった訳だ。
神棚の中で死んだ大きなくまネズミの家族について少し。このネズミと格闘している期間、床の間の外をカタカタ何匹かの別なネズミが登っていく音のようなのが聞こえた。また、夜中から明け方にかけて天井裏を客間の方に移動していく音も聞こえた。その都度天井裏を棒でドンドンと突っついて外に追い出そうとした。その頃はまだ、どうやって床の間の外から天井裏に上がるのか全く謎だったが、大きなくまネズミを神棚に閉じ込めたと確信できたころから、その別なネズミたちが上がってくることはなくなった。思うに私が閉じ込めたネズミは母か父で、それを追って、あるいは探して家族のネズミが上がってきていたようなのだ。しかし当のネズミが死んで、それを多分本能で察知した家族ネズミは諦めて侵入してこなくなったものと思われる。
標題の「ネズミの警告」とは、「食べ物を剥き出しで放置したりしてはならない」「いつネズミが侵入するかわからないから普段から注意しろ!」ということです。
我が家を襲ったネズミ騒動は結果としていいことも引き出してくれた。まず、一番はネズミの巣になっていたかも知れない裏の2階建ての倉庫を取り壊すことになったこと。2番目はネズミ騒動の直後に蟻のしつこい台所侵入、そして台所床の水漏れ発見。すぐに水道屋さんに来てもらい台所の上水を修理、取り替えてもらったところ、今まで毎日のように台所に現れていたナメクジが出なくなった、そして蟻も来なくなった、なんか黒くなっていた台所床が色が明るくなってきた。つまり、水道からの水漏れがかなりひどくなっていて床板を濡らし、カビが発生して床板が黒くなっていた。その床下ではナメクジが繁殖していたようだ。水漏れを察知したのか、蟻も水漏れ箇所から台所に侵入していたこともわかった。


intermezzo15(令和2年3月25日)
ブラームスに感謝
ブラームスの2つのピアノ曲に関して疑問点の解明を行っていたところ、付随して、和声学とペダル使用法、及びブラームスのメロディーの作り方などについて知識を深めることができました。そういう訳で「ブラームスに感謝」なのです。
まず、1つ目はフレーズに対するペダルの使い方です。
「インテルメッツォ118の2 イ長調」の中間部(嬰へ短調→嬰へ長調→嬰へ短調))のメロディーの弾き方がどうもうまくいかない、「どうしてだろうか?」といろいろ楽譜を研究していたところ、ペダル記号の使い方に気づきました。
中間部最初の小節はp~*、2~4小節目は同じくp~p~*、5小節目はp~*、6小節目はp~*~p。7小節目はp~p~*、8小節目はp~*。「自分のメロディーの弾き方がなんか変だ」とは感じていたものの、その理由がわからなかったのです。ペダル記号の付け方をじっくり見ていたら、はたと気づきました。フレーズを文に例えると、フレーズは文節的に少し(軽く)切れることがある。ペダル記号はこれを示しているのだ、と気づいたのです。最初から4小節目までのメロディーは1小節が1文節になっている。ところが私の弾き方は1小節目と2小節の最初の4分音符(1拍目)までを1つの文節として弾いていた。だからおかしかった。メロディーを文節的に分ける感じで表現し、かつ、ペダルの使い方も指示どおり厳密にやってみることにした。
1小節目は左手の最後の音でペダルを上げ、2小節目は同時ペダル的に始めた。2~4小節では小節内で和音が変わるから小節内でペダルを踏みかえている(この部分は同時ペダルあるいは後ペダルで)。そうやって見ていくと、前々から変なペダルの使い方だなあと思っていた6小節目は、記号の誤植だとわかりました。ここは2小節目と同じくp~p~*とならなければならない。ただし、2回目の踏みかえは最後の1拍なのかもしれない。いずれにしても6小節目がp~*~pではおかしいのです。
長いメロディーを構成している各フレーズをペダル記号から「文節的に表現したり、しなかったり」と、こういう表現の区別ができるようになりました。そうしたらなんか前より音楽的に弾ける感じがしてきました。118の2はフレーズが3拍目から始まることが随分多い。ペダル記号の付けられ方から文節的な表現をしなければならないフレーズも随分ある。また、文節的表現を排して、和音の変化からペダルを頻繁に踏みかえながらも、何小節もずうっと息をつかずに弾き続けるような長いフレーズもある。118の2について、このような表現に取り組めるようになったのは私の音楽的成長にほかなりません。ブラームスありがとう。
2つ目は借用和音です。
ブラームスのピアノ曲「ワルツ変イ長調」は、暗譜しても時間が経つとまた忘れるので、度々暗譜作業と共に和音の分析を行っています。そんな和音の分析作業で最近やっとわかったことがあります。それは13小節目の和音です。いままでこれがよくわかりませんでしたが、ついにこれは変ホ長調のⅤ7だとわかりました。続く14小節はその解決の変ホ長Ⅰ7(短7)だとわかりました。そうなのです!ここは和声学で言うところの借用和音でした。さらに、14小節にはブラームスの細工が入っていて、♭ラと♮ファ の非和声音を使ってソプラノは♭ラ→♮ソ→♮ファ→♭ミの滑らかなメロディー、テノール辺りの動きはそれに連動して♭シ→♭ラ→♮ソの滑らかなメロディー。こういう工夫は本当にブラームスらしいなと思います。最近、ブラームスの交響曲第2番のピアノ連弾版をよく聴くのですが、オーケストラ版より音の響きがよくわかります。聴きながら「ブラームスは濁った音が本当に好きなんだな」と感じているところです。濁った水が好きなフナとか鯉みたいですね。
ちょっと脱線しましたが、14小節目のような工夫は、3小節目にもあると気が付きました。ここにも濁った音を好むブラームスの特徴が出ています。この小節は1小節内で変イ長のⅣ→Ⅱ7の変化がありますが、♮ドと♭ミの非和声音を使って、ソプラノは♭レ→♮ド→♭シの滑らかなメロディー、テノール辺りは連動して♮ファ→♭ミ→♭レという滑らかな動き。3小節目はこれまでなんかよくわからない和音と思っていましたが、ようやく謎が解けた思いです。ブラームスありがとう。
この曲にはもう一つ借用和音があって、7小節目の3拍目から8小節にかけては変ホ長の平行短調であるハ短調のⅤ7→Ⅰだと思います。7小節目の2拍目は変イ長のⅢの和音だと思います。



intermezzo14(令和2年1月29日)
まず、1月11日に理恵子さんにピアノ無料カードを渡すことができた。理恵子さんがピアノ始めてくれるといいな。
さて、長年にわたり練習を続けてきたブラームスの「インテルメッツォ作品118の2、イ長調」が最近ようやく、曲全部を通して自在に弾けるようになってきた。ミスタッチがほとんどなくなり、テンポも最後まで一定で弾けるようになった(と言うのは何か所か難しい所があるからです)。30代半ば頃に好きになった曲で、いまでも「この曲は本当に名曲だなあ」としみじみ思います。弾いていて自分でも感動してしまいます。
この曲は女性に好まれるという特徴があります。というのは、50歳で始めた食品宅配業のお客様に若い女性のピアノの先生がいて、その人の前で中間部の手前まで弾いて少し教えて貰ったことがある。その先生は、私が弾きはじめると、「音大の友達(女性)が「美しい、いい曲があるのよ」といっていた曲だわ」と話してくれました。そして、私の弾くのに合わせてハミングしていたっけ。この曲は、もしかしたら音大の女子学生が結構好きになる曲なのかもしれません。
この曲を全部暗譜するのは苦労しました。スケルツォ第4番の場合と同様に、和音の分析を行いながら曲の構造や転調、借用和音(?)といった和音の変化を理解しながらやっと暗譜できました。
そこで、せっかくなので、この曲の和音の分析を以下、やってみたいと思います。ショパンに負けず劣らず和音の変化の激しい曲です。しかし、和音の変化の激しさは「少しだけわびしく悲しいメロディーを持った淡々とした曲想の中に、限りなく深い感情を込めるため」だとわかります。本当にブラームスらしいですね。


intermezzo13(令和2年1月7日)
年末年始をはさみ、いくつか価値あることを行った。
(1)12月中旬、Chikaにカード
(2)新年そうそう、裕に文書でアドバイス
(3)1月6日、理恵子さんにピアノの話、裏の取り壊し始まる

intermezzo12(令和元年10月23日)
  ショパン「24の前奏曲」第1番ハ長調の解説
第1番ハ長調について最近やっと「この曲はこんな感じで弾ければいいのかな!?」なんて思えるようになりました(「!?」は自分に対するわずかばかりの称賛、およびこういう弾き方でいいのかなという一抹の不安)。
第1番ハ長調については何より楽譜の読み解きに苦労しました。ネットで第1番の分析や弾き方について情報収集してみましたが、曲想についてのコメントは結構ありましたが、曲の分析や弾き方についてはほとんどありませんでした。理由を考えてみたところ、解説しようとする人はどうしても24曲全部について、あるいは何曲か抜粋して解説することになり、第1番だけを取り上げて詳しく解説しようという人はほとんどいないようです。それで私は仕方なく自分の演奏のために、自分で曲の分析を行いました。せっかくなのでその内容を記録しておこうと思いました。私の解説は(1)曲の構造や和音の分析、(2)曲想についての個人的見解、以上の2つに分けてやってみます。
(1) 曲の構造や和音の分析
第1番ハ長調では中心的メロディーが内声部にあります。この曲は3声で書かれているような気がしますが、2拍子のアウフタクトに当たる一番高い音の動きが中心的メロディーの短いエコー、あるいは中心的メロディーの補強的伴奏になっていると考えると、4声なのかなと思います。4声と考えると中心的メロディーはバリトンになるので、低い声でハミングする感じなのが納得できます。実際弾いて難しいのがこの中心的メロディーの浮き上がらせ方です。なぜ難しいのかと考えてみたところ、メロディー自体がアルト音域というか低音域で歌われるので目立たない。そして、メロディーの各構成部分が1小節ごとに異なった分散和音の「もやっとした雲」に包まれる感じなのでさらに目立たない。ましてや私のような初心者レベルでは16分音符の細かい音を滑らかに、小さな音で弾くことができないので、中心的メロディーのラインや響きをかき消してしまいます。そういう訳で中心的メロディーの浮き上がらせ方が大変難しい。
私がこの曲の分析で一番苦労し、今でもよく分からないのが中心的メロディーの背景にある和音(分散和音)です。そこで私なりに分析してみた結果を以下、書いてみます。
第1番は34小節の短い曲ですので、1小節ごとにメロディーの流れとそれを包む和音は何か、わかりやすく展開してみます。書き表し方は、|(数字は小節順番)(メロディーの流れ)(背後の和音の種類)|です。
|①(16分休符、♮ソーー♮ラ)(ハ長Ⅰ)|②(16分休符、♮ソーー♮ラ)(ハ長Ⅴ7)|③(16分休符、♮ソーー♮ラ)(ハ長Ⅰ)|④(16分休符、♮シーー♮ド)(ハ長Ⅰ7、長7度)|⑤(16分休符、♮ミーー♮レ)(ハ長Ⅳ7)|⑥(16分休符、♮ミーー♮レ)(ト長Ⅴ9)|⑦(16分休符、♮ミーー♮レ)(ハ長Ⅲ9)|⑧(16分休符、♮シーー♮ラ)(ハ長Ⅴ7)。ここまで見てもメロディーがいろんな和音で包まれていることがわかります。続く⑨⑩⑪⑫は①②③④と同じ。|⑬(16分休符、♯ドーー♮レ)(ハ長Ⅱ7)、♯ドは非和声音|⑭(16分休符、♯レーー♮ミ)(ハ長Ⅰ7、短7度)、♯レは非和声音|⑮(16分休符、♮ソーー♮ファ)(ハ長Ⅳ)、♮ソは非和声音|⑯(16分休符、♯レーー♮ミ)(ハ長Ⅰ)、♯レは非和声音|⑰(16分休符、♮ミーー♮ファ)(ハ長Ⅳ7)|⑱(♯ファーー♮ソ)(ハ長Ⅴ)、♯ファは非和声音|⑲(♯ソーー♮ラ)(ハ長Ⅵ7)、♯ソは非和声音)|⑳(♯ラーー♮シ)(ハ長Ⅶ7)、♯ラは非和声音)|2116分休符、(♮レーー♮ド)(ハ長Ⅴ)、♮レは非和声音|2216分休符、(♮シーー♮ラ)(ホ長Ⅴ9短)|23(♮ラーー♮ソ)(ハ長Ⅰ)♮ラは非和声音)|2416分休符、(♮ミーー♮レ)(ハ長Ⅴ7)、♮ミは非和声音)|25(♮ソーー♮ラ)(ハ長Ⅰ)|26(♮ミーー♮レ)(ハ長Ⅲ9)最低音の♮ドは非和声音だが25小節から最低音の♮ド♮ソは最後の34小節まで続くのでペダル音と理解しても良いかも|2716分休符、(♮ソーー♮ラ)(ハ長Ⅰ)|2816分休符、(♮ミーー♮レ)(ハ長Ⅲ9)|29~328分休符、(アウフタクトの高い♮ドがシンコペーションの形で1小節分の音価)(ハ長Ⅳ9)|33~34終結の分散和音(ハ長Ⅰ)|
(2) 曲想についての個人的見解
第1番ハ長調の曲想について、ほとんどすべての人において一致するのは「わくわくするような期待感」という捉え方です。私もこの曲を少しずつ、「アジタートの感じ」で自在に弾けるようになってきたら期待感溢れる曲想だなあと実感できるようになりました。何の期待感か、というと人によって様々なようです。
ネットで尚美学園大学芸術情報研究第27号論文「F・ショパンのピアノ演奏におけるアゴーギクの効果―24の前奏曲作品28を例として―」という文章を見つけました。著者は前田拓郎という方です。前田氏は第1番ハ長調の曲想について、アンドレ・ジッドの見解も紹介して次のように述べています。大変参考になったので、かなり長くなりますが、引用してみます。
「24曲の始まりである第1曲目に相応しい、何か大きな期待を感じさせる壮麗な作品である。この曲にはAgitatoの解釈について大きく議論が分かれるところだろう。演奏者はAgitatoという楽語を見ると、習性として少なからず速度を上げ、勢いを伴って演奏する傾向がしばしばあるように思われるが、ショパンはこの作品のAgitatoに果たしてどのような音楽的効果を望んだのだろうか。これについて、アンドレ・ジッドは、次のように述べている。
(以下、アンドレ・ジッドの見解)『曲の冒頭に記されたアジタートを口実に、演奏家達は(私の知っている限り)例外なく激しい混乱したテンポで始める。最も澄み切った調性で始まるこの曲集の第1曲目から、ショパンはこれほどに動揺した表現を本当に望んだのだろうか?同じハ長調で書かれた「練習曲」第1番の清々しさを、バッハによる「平均律クラヴィーア曲集」の二つの「前奏曲」ハ長調の純粋さと静けさを、穏やかで自然な提示を思い浮かべてほしい。(中略)私は決してショパンとバッハの前奏曲を同一視するつもりはないが、そこにあくまでも曲集の扉としての、誘いのような役割を見出すのである』」。
最後に、私の個人的見解です。私は以前、この曲の最も美しい演奏としてユリアンナ・アヴデーエワさんのミュンヘンでの録音を上げましたが、どこが気に入ったのかというと、ユリアンナ・アヴデーエワさんはffの21小節目と続く22小節目を、あたかも花火が上空でパーン、パーンと2発連続して美しく開いたように演奏します。すると非和声音が印象的な18~20小節の半音階進行のメロディーは、あたかも花火が上空まで速い速度でシュルシュルと上がっていく感じに聞こえてきます。ショパンの時代のフランスに花火があったかどうかはわかりませんが、18~22小節が美しい花火の情景だと勝手に解釈すると、16分休符を間に入れて展開される低音の中心的メロディーが感じさせる期待感は、何かの大きなお祭り、あるいは大きなイベントが明日から始まるという楽しい期待感、そしてその前夜祭として打ち上げられる美しい花火を今か今かとわくわくしながら待っている人々の気持ちかな、と勝手に思ってしまいます。花火が終わるとあたりは少しずつ静かになって人々も家に帰っていくようです。29小節からのアウフタクトの高い♮ド(4回鳴ります)の音は帰路の際聞こえてくる教会の鐘の音のようですね。最後はハ長調の分散和音が静かなppで2小節響きます。
結論的に述べると、前述の前田拓郎氏が提唱するように、この第1番は決して速すぎるテンポで弾いてはならず、中心的メロディーが「ワクワクする期待感」を十分に表現できるレベルの速度で「アジタート」を表現することが重要と思われます。ユリアンナ・アヴデーエワさんの演奏は前田拓郎氏の提唱にピッタリなのです。新進の若い演奏家、あるいはコンクールへのチャレンジャーの人たちの中には第1番の曲想を考慮しないで、速く、激しく弾き過ぎてこの曲の美しさを損なっている傾向があることが私にもわかってきました。

intermezzo11(令和元年6月12日)
スケルツォ第4番の和音について
スケルツォ第4番の一番スケルツォらしい部分は、|タ、タ、タ|タ、タ、タ|タッ(3拍)|ター(3拍)|と頂点まで軽やかに駆け上がり|タ、タ、タ|タ、タ、タ|タッ(3拍)|と軽やかに下ってきて|ター(3拍)|タ、 四分休符2つ|というフレーズだと思います。このフレーズは聴き手をなぜかとても嬉しくさせてくれます。このフレーズは全曲の中で4種類あります。そして頂点の|ター(3拍)|から下りてくる部分は本当に難しい!この難しい部分について私の場合、何度暗譜してもすぐ忘れてしまうし、速く弾こうとすると度々音をはずしてしまいます。自分でも本当に嫌になって「なぜなのか」じっくり考えてみました。そうしたら、原因がわかったような気がします。自分で暗譜したと思っていても実は暗譜していない、暗譜の仕方が全く弱いのではないかと。そこで和音の種類の特定とその和音を構成する各音名(1つの和音にだいたい4つあります)すべての暗記、そして音名と鍵盤の一致、これができれば音をはずすことはなくなるのではないか。そんな仮説を立てて再度、和音の分析を行いました。せっかくなのでその内容を記しておきます。
最初の部分は、ホ長Ⅰで駆け上がり(ここはすぐ前の4小節がロ長Ⅴ7なのでロ長Ⅳで駆け上がりとも捉えることができますが、フレーズの終結がホ長のカデンツなのでホ長Ⅰでの駆け上がりと解釈した方が良いかと思われます)、頂点はロ長減7の和音、下りはその解決(Ⅰ)、続いて嬰ヘ短の減7と解決(Ⅰ)、そして嬰ハ短のカデンツ(Ⅱ7→Ⅴ→Ⅰ→Ⅰ)、締めくくりはフレーズの始まりの調に戻ってホ長のⅤ→Ⅰ。
2番目の部分は、イ長Ⅴ7で駆け上がり、頂点はイ長Ⅳ7の和音、下りはそのカデンツでⅤ9(長9度根音省略)→Ⅴ7→Ⅰ、続いてまたイ長のカデンツでⅣ→Ⅴ→Ⅰ、締めくくりもⅣ→Ⅴ7→Ⅰ。
3番目は、変イ長Ⅰで駆け上がり、頂点は変ホ長の減7、下りはその解決(Ⅰ)、続いて変ロ短の減7と解決(Ⅰ)、変イ長減7と解決(Ⅰ)、さらに変イ長カデンツ(Ⅵ7→Ⅱ7→Ⅴ→Ⅰ)で下って安定。
4番目は、嬰ハ長Ⅳで駆け上がり、頂点は嬰ハ長の減7、下りはその解決(Ⅰ)、続いて嬰ト短の減7と解決(Ⅰ)、さらに嬰ニ短のカデンツ(Ⅱ7→Ⅴ→Ⅰ→Ⅰ)、締めくくりはフレーズの始まりの調に戻って嬰ハ長Ⅰ、そして次の新しい曲想に入っていく導入として嬰ハ長減7。
なお、メロディーラインも下りの中ほどまでは4種類にすべて共通していることもわかりました。「完全4度で頂点に上がり、続いて長2度下り、さらに短3度下り、今度は半音上がり、また短3度下がり、そして長2度上がる」ここまでが共通です。どおりで同じメロディーに聞こえる訳だ。
以上、4種類の部分について和音の特定を行ってみた訳ですが、つくづく「なんて曲なんだ!!」と思わざるをえません。ショパンの他の大曲を分析したことはないのでなんとも言えないのですが、スケルツォ第4番については「なんて和音の変化や調の変化が多彩で、豊かで、頻繁なんだ!」と改めて驚きます。確かなことは同じくロマン派の作曲家でもドイツ系音楽家、シューマンやブラームスはここまではやっていないと思います。


intermezzo10(令和元年6月5日)
ユリアンナ・アヴデーエワさんのスケルツォ第4番と天地真理さんの「ミモザの花の咲く頃」の類似性について
ユリアンナ・アヴデーエワさんが2010年ショパンコンクールのファーストステージで演奏したスケルツォ第4番は古今の数多くのピアニストの演奏に比べても、そしてアヴデーエワさんのいくつかの演奏の中でも一番優れた演奏ではないかと思います。なぜかと言うと「ショパンが書いたこの曲の楽譜にアヴデーエワさんによって生命が吹き込まれ、生命体となった楽譜が自ら音を発して自分を再現している感じ」がするからです。どういうことかと言うと、アヴデーエワさんはこのファーストステージでの演奏で、演奏家が往々にして演奏に注入してしまう、あるいは演奏の中で表現してしまう「演奏家自身の個性」(=漠然とした言い方では演奏家の音楽性、具体的な現れ方としては演奏の癖、表現の癖とか、歌い回しとか言ったもの)を一切出すことなく、曲そのものが持っている、あるいは楽譜そのものが語ってくる素晴らしい音楽美(響き、リズム、メロディーなどの美しさ、豊かさ、独創性・・・)のみを浮かび上がらせているからです。これはショパンコンクールという稀な機会における演奏という事象のせいもあるでしょう。「ショパンを表現する」「ショパンを再現する」という志向においてアヴデーエワさんはコンクールにおいて本当に純粋だったとも言えます。その結果、アヴデーエワさんの音楽的特質(本質)が自然にストレートに出てきたのだと思います。逆に言えば、このような音楽的特質(本質)を演奏家がそもそも持ち合わせていなければ、「演奏家自身の個性の表現は加えないで曲そのものに内在するものだけを表現する行為」は不可能なことと思えます。つまりこのことを深く理解する演奏家でないとできないことだと思うからです。
付け加えると、テンポ、曲の速さの点でもアヴデーエワさんの演奏テンポはスケルツォ第4番に最もふさわしいテンポ、つまりスケルツォ第4番という曲の本質が求める一番望ましいテンポではないかという気がします。アヴデーエワさんのテンポは他の演奏家と比べると少し遅い方のテンポですが、この曲はプレストですが「速く弾けばいい」という曲ではありません。曲の内容を聴衆に確実に聞き取ってもらうためには、「適正な速度」というものがあるのではないでしょうか。アヴデーエワさんはそのことをよく知っていて実践していると思うのです。アヴデーエワさんのテクニックがあればもっと速いテンポでの演奏も可能です。しかし、そうはしない。曲の内容が求める表現速度というものがあるのだ、ということをアヴデーエワさんは実践しているのではないかと思う訳です。ここにはアヴデーエワさんから離れても、クラシック音楽愛好家、というか「クラシック作曲家をより愛好する立場」から言うと、かなり本質的な研究課題を提起していると思います。「曲にはその曲に内在するものによって自ずと適正な速度というものがあるんだ」という問題提起です。アヴデーエワさんがテクニック的、音楽的に優れただけのピアニストでないことはこういう思索を私たちにさせてしまう点なのです。
話は「曲の内実を誠実に浮かび上がらせる」ということに戻りますが、アヴデーエワさんがこのコンクールのセカンドステージで弾いたマズルカ作品30の4、嬰ハ短調でも同じことが言えます。アヴデーエワさんの演奏は全体にテンポはやや速め、この曲の一番の聴きどころであるロ長調の中間部はきちんと感動的に盛り上げています。しかしアヴデーエワさんの演奏は他の演奏家に比べると意外に素直、素朴、そしてさらっと滑らかに流れます。この曲は嬰ハ短調の独特の美しさ、そして、全曲を構成する特徴的な4つの部分(半音階進行のコーダが4つ目)すべてがそれぞれ独自の美しさを持っているという曲で(私はショパンのマズルカの中で一番の傑作だと思っています)、そのためか演奏家によってかなり表現が異なってくる曲です。凝った演奏が多い曲です。「美しくデフォルメ」する人もいます。演奏家の主観によってどのように弾かれても一向に美しさを損なわないという名曲でもあります。アヴデーエワさんはこの曲に「主観的な解釈」を施さず、「この曲は独特な美しさを持ちながらも実にシンプル(素朴)な曲である」ことをそのまま再現したのです。審査員をうならせようと思えばいくらでもできる曲なのにあえてそうしない。この曲が持つ「一途な情熱と感動の美しい盛り上がり」を実に素朴に、シンプルに表現しています。この曲を弾くとわかりますが、内容の豊かさ、劇的さのわりに意外と素朴に書かれているのです。だから決して演奏的に難しい曲ではありません。そういう訳で、この曲を練習している私にはアヴデーエワさんの演奏は本当に模範的な演奏なのです。
これまで述べてきたことは、アヴデーエワさんの演奏では曲の解釈、表現に「自分の個性、自分の思い」といったものを加えて「曲を歪ませる」ことがないということです。ただただ曲の持つ本質(魅力、美しさ、優れた点)を楽譜どおりに私たちに提示してくれる、聞かせてくれるところがアヴデーエワさんの演奏の特質だと思います。
このような思いがするのが、実はもう一つあって、それは天地真理さんの「ミモザの花の咲く頃」です。天地真理さんの歌をすべて聴いたわけではありませんが、これは彼女の絶頂期の歌い方ではないか、彼女の歌い方の頂点ではないかと思います。そして彼女の歌い方の真髄、あるいは本質を見せているのではないかと思うのです。この曲の録音は1973年ですから天地真理さんはデビューからわずか2年で自分の歌い方の最高点に到達したということになるでしょう。私は「ミモザの花の咲く頃」の楽譜を見た訳ではないので、彼女の歌い方と楽譜を照らし合わせることはできません。しかし、推察するに、天地真理さんの歌い方はアヴデーエワさんの演奏の場合とほぼ同じではないかと思うのです。天地真理さんの「ミモザの花の咲く頃」では「ミモザの花の咲く頃」の曲そのものがもつ魅力、美しさ、気分そういったものだけが際立たされていて、「歌のうまさを聴かせる」という歌手が持ちがちな意識は、レコーディング中の天地真理さんには全くなかったのではないかと推察されます。それは、天地真理さんがこの曲を実に無理なく自然に歌いながら、聴く人を自然にこの曲の「幸福な気分」に浸らせることに成功しているからです。天地真理さんの歌唱の本質は、アヴデーエワさんの場合と同じく、聴衆に「自分のうまさを聴かせる」のでなく「曲のそのもの美しさを聴かせる」点にあるのではないかと思うのです。
冒頭の「類似性」とはこのことです。天地真理さんの「ミモザの花の咲く頃」はいつ聴いても、何度聴いてもただただ感動し、感心するばかりです。そしていつも私は天地真理さんに「クラシック音楽家」の資質を見てしまうのです。


intermezzo9
スケルツォ第4番中間部の和音についての考察
中間部の小節数についてはritenutoで始まる小節を1番目として数えることにします。
1~17までは嬰ハ短調ですが1~9はⅤ9、18~24はホ長調、25は嬰へ短調のⅤ7のようです。続く26~33も嬰へ短調、34~37は嬰ハ短調、38~43は嬰ト短調ですが39と43は嬰ト長の和音でないかと思います。sostenutoの44から48は嬰ハ長調Ⅴ9、49~57は嬰ハ短調、58~64はホ長調、65~77は嬰へ短調(65は嬰へ短調のⅤ7ではないか)、78と79は嬰ト長の和音、80~82は嬰ト短調、83~88は嬰ハ長調Ⅴ9、89~100は嬰へ長調ですが細かく見ていくと、89はⅤ→Ⅵ、90~91はⅢ9、92~93はⅠ、94~95はⅤ11、96はⅠ、97はⅡ7、98~99はⅢ9、100はⅠ。101~104は嬰ハ長で101~102がⅣ、103はⅦ7ではないか、そして104はⅥ9。105は嬰イ短調のⅤではないか。106~115はへ長調で106~107はⅠ11、108~109はⅠ、110~111はⅤ11、112はⅠ、113はⅡ7、114~115はⅢ9。116~125は嬰ハ短調Ⅴ9の根音省略形。89~115が特に難しかった。
なぜこんなに細かく和音およびその連結を分析しているかと言うと、高齢者になったため暗譜が本当に難しくなり、いちいち楽譜に理屈(理論)をつけながらでないと覚えられなくなったためです。お蔭で和音に少し強くなりました。ショパンのスケルツォ第4番は全曲を通して和音の使い方、その変化が実に豊かで多彩です。豊かで多彩過ぎるといっても良いでしょう。本当に勉強になる曲です。続きの和音の分析はまた・・・。

intermezzo8(2019年4月12日)
今年の桜にとても感心!(感動ではありません。感心です。) 私には「my桜」が2本あって、今日それを見て大変感心しました。この2本の桜は4月9日には「もう少しで満開かな」といった感じで咲いていました。やはり例年より1週間は早い気がするので、今年もすぐ満開になって、あっと言う間に散ってしまうのかなあ、と4月9日には思っていました。そしたら4月10日の夕方から11日朝にかけて大雪になりました。水分をたっぷり含んだ春の大雪です。「せっかく咲いたのにこれでは花びらが全部落ちちゃっただろうなあ」とmy桜を見に行ったら、なんと強風で根元ごと飛ばされたらしい花びらが近くにちらほら落ちていただけで、大雪の影響は全くなかった如くしっかり咲いていました!しかもあと少しで満開って感じ!いやあ、感心しました!「あの雪に花びらが全く落とされなかったなんて!今年の桜は凄い!感心した!」という訳なんです。しかも、10日夜、11日の夜はどうも零度近くまで下がったようで、お蔭で桜の開花が2日間、一時停止状態になったみたいでした。最後に、こげらのつがいが木の幹で蟻なんか食べているのを見ました。こげらを見たのは初めてです。白黒の横じまのすずめくらいの鳥でした。

intermezzo7(2019年4月6日)
私のピアノ修行の転換点について
最近、ピアノ練習に関して2つの大きな進歩がありました。
1つは、手と指がものすごく柔らかくなり、また手首も柔らかく動くようになったということ。35年くらい前に一生懸命練習してある程度弾けるようになっていたドビュッシー「子供の領分」の「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」と「人形へのセレナーデ」を本当に20年ぶりくらいにまた練習し直しました。今度は、楽譜を研究しながら(全音楽譜に付けられた松平頼則氏の楽曲分析は大変参考になりました)完全暗譜し、強弱の付け方(両方の曲とも大部分がpかppなので弱音には特に気を使う)、増量ペダルと弱音ペダルの使い方、そして指使いに特に気を付けて(安川加寿子氏や田中希代子氏の校訂を参考にしながら)練習していました。「パルナッスム博士」の練習において顕著に現れたのですが、指と手が自然に柔らかくなったことです!これは本当に驚くべきことで、その理由を考えてみたところ、この曲は子供の手で弾くように設計されたのかと感じさせる位(シュウシュウに捧げられたとはいえ音楽内容は充分に大人対応だから)、指の間の間隔があまり開かず指同士をかなり接近させるので、手を無理に開くのでなく逆につぼめて弾く感じ、また両手が接近・接触したり、その上、曲の冒頭の「音の粒をそろえて滑らかに」という指示を実現しようとすると、自然に手と指が柔らかくなってくるのです。
2つ目は、鍵盤を見ないで弾けるようになってきたということ。昔買った「弟子から見たショパン」(音楽の友社)という本をなんかまた読み直したくなって(もっとも買っただけで精読なんてしてなかった)ひも解いてみたら、次のような弟子の証言に出会いました。
「彼は(ショパンと同時代の名演奏家、ヴォトポール氏のこと)先ほどわたしが述べた、楽譜を見ながらの練習にも反対ではありませんが、曲の最後の仕上げのときは楽譜ばかりか鍵盤も見ないで弾くように勧めているのです--これは彼がショパン自身の考え方を受けついだものです。彼はショパンがいつも同じところに目をやって、ピアノを弾いていながら目のほうは左側の上の方をじっと見つめているような風なのに驚き、その点を本人に問いただしてみたそうです。するとショパンは返事をするかわりに、こう助言してくれたそうなんです。「曲を暗譜したら、今度は暗がりで練習してごらん!音符も鍵盤も見えなくなって、すべてが闇の中に消え去ってしまうこの瞬間こそ、聴覚が完全に研ぎ澄まされるときなんだ--こうすると自分の出している音が本当に聞こえてきて、欠点がはっきりしてくる。手の動きにも自信がついて、大胆になれるものだよ。しょっちゅう鍵盤を見ながら弾いているときには考えられないくらいだ」
この証言を参考にして私も鍵盤を見ないで(目を閉じたり、左上の方を見たりして)弾いてみたところ、少しずつできるようになってきました。「パルナッスム博士」で始めたのが良かったのかもしれません。前述したようにこの曲は手や指が遠くに飛ぶことがほとんどなく、常に接近しているので鍵盤を見ないで弾くことがかなり容易にできます。そして、その他の曲でも鍵盤を見ないで弾くことを始めたのです。最初は鍵盤の上を手探りしていましたが、最近では目を閉じていても鍵盤が目の前に浮かぶようになってきました。
この「弟子から見たショパン」で勉強になった証言を2つ紹介します。
①「鍵盤を撫でるくらいで良いのです。絶対に叩いてはいけません!」とショパンは言っていたそうだ。
②スタッカートのときは、ちょうどiという文字の上につける点のように、ハープやギターの弦を爪弾くつもりで弾きます。ヴァイオリンのピッチカートと同じことです。これほど素晴らしい弦の響きを得るには、手を縮ませたり、短く乾燥したタッチで弾いたりせずに--言わば飛んでいる蠅の羽根が触れるように、鍵盤をかするつもりで弾くと良いのです。
特に②のスタッカートの弾き方は大変勉強になり、実践しているところです。


ジャンヌは人を説得したり、鼓舞する話術に長けていたようです。ジャンヌの弁舌の才能についてまず、二人の研究者の見解を紹介してみます。そして、その次にはジャンヌが実際に語ったとされる会話や言葉を見ていきましょう。
まず、コレット・ボーヌ氏の見解です。ボーヌ氏は著書「幻想のジャンヌ・ダルク」(昭和堂)の第14章「異端者」でジャンヌの優れた弁舌の才能について次のように述べています(少し長い引用となりますが重要な捉え方と思われますので読んでみて下さい)。
「当時の人々は二人(ジャンヌと聖カトリーヌ)の生涯がよく似ていることに、すぐさま気がついた。たしかに、ジャンヌは王女でも教養人でもなかった。しかし、二人とも貞潔を誓い、結婚を拒否した。また彼女たちは、大勢の学者たちによる審議に立ち向かい、説得を試みなければならなかった。彼女たちは長いあいだ、幽閉され、その間に天使の訪問を受けた。そして彼女たちは不当に命を奪われ(=ジャンヌは19歳で、聖カトリーヌは18歳で)、最後にその魂はまっすぐ天国へと向かった。
 こうした類似を超えて、彼女たちは同じ役割を果たしてもいる。カトリーヌは剣を手にした聖女であり、いわば奇蹟の武器をジャンヌと共有している。ジャンヌの剣は、兵士たちがよく訪れる聖所(=プシコー元帥が14世紀末頃、聖カトリーヌに献じて建てた巡礼者のための礼拝堂)、フィエルボワ(=サント・カトリーヌ・フィエルボワという小さな村)に由来した。カトリーヌの指輪は怪我から身を守ると言われていた。聖女カトリーヌは癒し、牢獄から解放し、勝利を予告した。ジャンヌは指揮官として、剣を手にした娘となり、守護聖女(=聖カトリーヌのこと)の庇護のもと勝利をもたらした。
 しかし、カトリーヌは何にもまして「もう一人の使徒」、つまり公衆に向かって神を語り、説得する女性だった―マグダラのマリアを別にすれば、いかなる処女も聖女もそのような役割は担っていなかった―。女性にはほとんど認められていなかったこの役割を、ジャンヌは引き受けた。キリスト教世界では、女性は不浄で男性よりも知性に劣ると見なされ、祭祀や政(まつりごと)に関して公的な発言の機会は制限されている。女性はそもそも司祭になることはできず、パンと葡萄酒をキリストの肉体と血に変える言葉を口にすることもできない。女性は教壇に立つことができず(なぜなら教職は学識と位階制に立脚した地位を前提とするからである)、聖職者の養成機関たる大学で学ぶこともできない。そしてまた、女性は説教もできなければ、公衆を前に発言することもできない。「人の集まるところでは、女性は口をつぐむべし」、聖ペテロはこのように語っていたし、1234年の教皇法令集はこれら禁止事項を公理化した。
ところで、カトリーヌは生前、説教を行い、人々を回心させていた。聖書註解学者たちは、彼女のなかにある、女性の知的な弱さを超越した神の恵みを述べ立てた。そのうえ当時は説教師に事欠いていた。カトリーヌ、あるいはマグダラのマリアは「敬う存在であって、真似る存在ではない」のだった。
ジャンヌの世代にとって、現実こそが問題だった。女性の言葉に好意的な神学者たちは、預言能力が女性にも開かれていることを強調していた。もっとも、そこで問題にされていたのは教会制度の外にある霊的な言葉だった。他の者たちは区別を設けていた。曰く、たしかに娘らは公衆を前に教育を行うことはできない。しかし、言うまでもなく、母親は子どもたちをしつけられるし、妻は夫にキリスト教の原則に注意を促すこともできる。女性は説教こそできないが、とくに内輪でなら道徳に関して近親や隣人を教導できるのである。そして最後は、論争で感情を高ぶらせたクリスチーヌ・ド・ピザンが、「婦人の都」で論争にけりをつけた。「もし、女たちが話すことを神が望まなかったのなら、神は女たちを唖者にしたはずでしょう!」
ところで、神はジャンヌを唖者にはしなかった。女性に要求されるステレオタイプの沈黙がしばしば年代記のなかに見出されるとしても―ジャンヌは、言葉少なに、穏やかに、慎ましやかに話したと言われる―、実際の「乙女」は言葉巧みにずいぶんと話したようである。この領域における彼女の紛うことなき才能は、ドンレミで現れる。「ジャンヌはじつにみごとに話した」(=アルベール・ドルシュ)。彼女は好奇心をそそったり、説得したりする術を心得ていた。シノンまで同行したジャン・ド・ヌイヨンポンは、「彼女の言葉に心をかき立てられ、その言葉を信じたのだった」。彼女は仲間を励まして「恐怖を感じない」ようにしてあげることができた(=ジャン・ド・ヌイヨンポン)。宮廷に着いたとき、この才能は確証された。「彼女に会って、話を聞くと、神がなさっているように感じられる」(=ギ・ド・ラヴァル)。ジャンヌが預言者および指揮官として地位を得たのは弁舌のおかげである。彼女は悔悛を説き勧めることも、励ますことも、あるいは勝利を約束することもできたのだった。
ジャンヌの発言は、伝統が女性に割り当ててきた言葉の境界を何度も越えた。ポアチエでの審問が最大の試練となった。そこでジャンヌは、聖カトリーヌのように、博士たちに立ち向かう。「彼女はそこで気高く、高貴な人のように話した。・・・単なる小娘がこれほど見事に受け答えできることに、みなが驚嘆した」(=「乙女の年代記」)。「モロジーニ年代記」によって、ジャンヌと聖カトリーヌの最初の対比がなされたのは、この折のことである。曰く、「彼女が注目すべきことをこれほど話すのを聞くと、この世に現れたもう一人の聖カトリーヌさながらに思われた」。ポアチエ(での審問)以降、ジャンヌの言葉は彼女自身の陣営に受け入れられる。彼女の言葉は、オルレアンを前に開かれた軍議でも、トロワでの国王顧問会議でも、幅を利かせる。もっとも不可解な発言場面は、コンピエーニュでのことだ。捕えられる前の日、ジャンヌは教会に幼い男の子らを集めて、祈ってくれるように頼んだという。これは聖別された場所での、男性に向けた、公的な発言である。たしかに、子どもしか関わっていないし、ジャンヌは内陣ではなく支柱脇の外陣で話している。イギリス=ブルゴーニュ派の陣営では、偽りの言葉(ジャンヌの預言のすべてが実現したわけではなかった)、疑わしく魔術的でさえある言葉を、遠慮なく非難した。「彼女はキリストの名において人々を叱責し・・・民衆を引き寄せるために説教をしていた・・・」。言葉の選択は無垢なものではありえない。
ルーアンでの裁判は、カトリーヌと50人の博士との対決の繰り返しである。このとき「乙女」はミカエルやマルグリット以上にカトリーヌの加護を口にしており、間違いなくカトリーヌと博士の対決を意識している。1456年の王の顧問官たちにとって、カトリーヌは「性と処女性において」ジャンヌに都合がよかった。そして女性たちは、どちらかと言えば、女同士で慰め合うものなのだ。ただ一人ブレアルだけが、公的発言という厄介な問題に敢えて取り組んでいる。聖霊から霊感を授かった二人の娘に、「学者たちは異議を申し立てた。王国全土から集まった学者たちで、たいてい50名が居並び、40名のときもあったが、30名以下になることはほとんどなかった。彼らは、暴君マクセンティウスが召喚した学者同様、ありうる限りの学位を有していた。その人数と学識にもかかわらず、彼らはたった一人の娘を説得できなかった」。ブレアルは用心深く、彼が焦点を当てるのは哲学者たちであって、彼らを論破した娘たちではない。」
 以上、かなり長くなりましたが、コレット・ボーヌ氏の捉え方です。氏の言わんとするところは、「ジャンヌの優れた弁舌の才能はもちろんジャンヌの生来のものであるが、それ以上に、宗教的使命あるいは役割(=神は、イギリスからフランスの解放とフランスというキリスト信仰王国の確立を望んでいる。それを私は実現するのだ、という)の強烈な自覚がもたらしたものである。自分の信仰を守り抜き、神から与えられた使命・役割を実現するために、ジャンヌが自ら身につけた、あるいは開発した才能だ。そしてそれは聖カトリーヌに匹敵する。」ということだと思われます。


intermezzo6(2018年12月23日)
SGユニフォームがとても似合っているTさんに③。
つい最近、自分がこれまで全く雑なペダリングをしてきたことに気づきました。なんということだ!!そこで昔買った安田信子著「ピアノ・ペダルの踏み方」(音楽之友社)を引っ張り出してあらためて読んでみました。大変勉強になったので、とりあえずは、今練習している曲すべてについて「深いペダル」「半ペダル」「浅いペダル」「後ペダル」「同時ペダル」を使い分けてみることにしました。ほとんどの楽譜にはこのような指示は(当然ながら・・・?)全く書かれていないので、それこそ「私なりの楽譜の読み取りに基づく音楽的表現」をこれまで以上に、いや、これまでよりも何倍も追求せざるを得なくなりました。「表現の道」ひいては「芸術の道」ってなんて長く遠いのでしょうか!


intermezzo5(2018年12月12日)
SGユニフォームがカッコイイTさんに②。
人生にはいろんな種類の喜び、いろんな内容の喜びというものがありますが、現在の私が最高にうれしいと感じる喜びは、ショパン「24の前奏曲」の第1番ハ長調がやっと音楽的になってきたことです。本当に苦労しました!!最初は「この楽譜はどう読んだらいいのか」というレベル。次は、指と手が硬いせいか楽譜が指示する指使いでは手が痛くなったり、押すべき鍵盤まで指が届かなかったりと散々の状態。そうして長い時間(=月日)がかかって、やっと中声部のメロディーが出せるようになり(=弾いている自分にもメロディーが聞こえるようになった!!)、そしてついに最近では、かなりゆっくりのテンポではあるが(=ショパンの指示はアジタート)中声部のメロディーを少し朗々と奏でながら、2拍子で(=8分の2拍子。しかし実際は1小節を1拍として演奏しなければならないのかも)柔らかく弾けるようになってきたこと!!最初は届かなかった指もなぜか届くようになり、手も痛くならなくなった!要するに手や指の緊張が解け、不要な筋肉も使わなくなり、手全体が柔らかくなってきたということか!!独学のアマチュアにとってこの曲は大変難しいですが、手と指を柔らかくする練習曲としては大変いい曲かも知れません。ただし、完成の目標まではかなり、相当遠いです。この第1番について私の目標とする演奏は、ユリアンナ・アヴデーエワさんが2013年にミュンヘンで演奏したものです。アヴデーエワさんは世界各地でこの曲を演奏しているため、少しずつ違った演奏となっているようで、私が手本とするのは2013年ミュンヘン録音です。なぜこの録音を手本とするのかはまた別の機会に。ちょっとだけ言っておくと、ミュンヘン録音の第1番は私が聴いてきた中で一番最高に美しい演奏です。このように美しく演奏するのを今まで聞いたことがありません!ショパンがこれを聞いたらうれしさのあまりきっと小躍りすると思うな!


intermezzo4(2018年10月28日)
懐かしい朋恵さんに。元気でやってるかな。ブラームスピアノ教室の案内はどうだろうか?
夜、自宅でちょっとした仕事をしながら、ユリアンナ・アヴデーエワさんの演奏するブラームスピアノ協奏曲第1番を聴いていました。私にとっては過去から現在までに聴いた中で、アヴデーエワさんの演奏はこの曲の一番美しい演奏です。聴いているうちに、クララ・シューマンのこの曲の演奏はきっとこんな感じだったんだろうなあと思いつきました。ブラームスの指揮、クララ・シューマンのピアノという歴史的演奏はもちろん私は聞いたことがありませんが、この録音がなんかその歴史的演奏のような気がしてきたので不思議な気分です。

intermezzo3(2018年10月26日)
Tさんとは恋人関係?聞いてみたいな、Rさんに。
夜中の2時頃から目が覚めてしまい布団の中でうつらうつらしていたら、ドビュッシーベルガマスク組曲のメヌエットは、「大きな時計の振り子のようにスィングする感じで弾くといいかも!」とひらめきました。実は、私の弾くテンポがもの凄く遅いせいなのか、音楽が全く流れない感じで困っていたのです。そこで朝一番で、ひらめいたことを試してみました。そしたら、なんか音楽がよどみなく流れる感じになってきたのです!
これもたゆまぬ研究の成果です。

intermezzo2(2018年8月29日)
SGユニフォームがとても似合っているTさんに①。
最近、ショパンのスケルツォ第4番とマズルカ作品30の4、ドビュッシーのベルガマスク組曲のメヌエットがなんとなく音楽的になり、少し聞けるようになりました。これも粘り強い練習、要するに努力の賜物です。稲子さん、一度私のグランドピアノ練習を見に来てほしいな。
これからはシューマンのクライスレリアーナの第1曲と第7曲をなんとか聞けるようにがんばってみます。


intermezzo1(2018年4月24日)
別に頼んだわけではないのに、今年はいつもより2週間くらい早く桜が咲いてしまって、しかもあっという間に終わってしまったので、桜をほとんど楽しむことができませんでした。本当に残念でした。そしたら今度はあっという間に若葉の季節が来ました。この季節になると頭の中で天地真理さんの「若葉のささやき」がいつも流れるようになります。本当にいい曲ですね。以下、歌詞を引用します。


若葉が町に 急に萌え出した
      ある日私が 知らないうちに
      あなたのことで 今はこの胸が
      いっぱいだから わからなかったの
      愛はよろこび それとも涙
      誰も知らない ことなのね
      若葉が風と ささやく町を
      愛を心に 私はゆくの


愛する季節 いつか訪れる
      それは誰にも あることなのよ
      悲しい夢に もしも終わろうと
      若さをかけて 愛してゆくの
      愛はよろこび それとも涙
      いつか私も わかるでしょう
      若葉が風と ささやく町を
      愛を心に 私はゆくの

ジャンヌ・ダルクはどんな人だったか(1)
-戦士または軍指揮官としてのジャンヌ-

ウィキペディアではジャンヌ・ダルクの肩書と言うかキャリアはまさしく「フランス王国の軍人」となっています。ジャンヌの生涯をたどると確かに「ジャンヌ・ダルクは軍人としてその生涯を終えた」ことがわかります。ジャンヌを研究すると、ジャンヌの正確な肩書は「イエスを信仰する戦士、かつフランス王国の軍指揮官」とつけた方が良いと思われます。では「イエスを信仰する戦士」としてジャンヌは何を目指したのかは、おいおいこのエッセーの中で見ていきましょう。驚くことは女性にもかかわらず若干17歳で突如、フランス軍の指揮官となり輝かしい功績を上げ、死後あるいは後世になってから美化、伝説化されたのではなく生きていた時から同時代人によってすでに神話的な人物、奇跡的な人物として感じられ、伝説的人物となっていたという事実です。
そこでまず、戦士または軍指揮官としてのジャンヌはどんな人だったかを見ていきましょう。次に引用するのは「ジャンヌ・ダルク復権裁判」(レジーヌ・ペルヌー編著、高山一彦訳)におけるいくつかの証言です。そこからはジャンヌが天性の軍指揮官であり戦士だったことがわかります。
最初はアランソン公の証言です。フランス国王家につながる血統のアランソン公ジャン2世は当時25歳で、オルレアン解放戦の頃はフランス軍の責任者で国王代理だった人物です。アランソン公はジャンヌの生前、ジャンヌと共に戦い、ジャンヌをどこまでも支持した人物として有名です。
「私が見ることができた限りでは、彼女は立派なカトリック信徒で、誠実な女性だといつも考えていました。私は彼女がご聖体(=ホスチアと呼ばれる無発酵パン)を拝領するのを何度か見ましたし、彼女はご聖体を目にすると、涙を流して泣いていました。彼女は聖体拝領の儀式に週に二度は参加していましたし、たびたび告解をしていました。戦闘における行動を除けば、ジャンヌはあらゆる行動が素朴かつ未熟でした。けれどいったん戦闘のことになると、槍の用い方にせよ、部隊を戦闘態勢に整えるやり方にせよ、砲兵隊を準備する場合にせよ、彼女は非常な専門家となり、こと戦闘に関してはきわめて細心で思慮深く、二、三十年の経験がある隊長が行うようでした。とりわけ大砲の準備では彼女は優れた技量を示しました。」
アランソン公は、フランス国王軍の中で隊長たちの意見が対立したときのジャンヌの説得力と行動について次のように証言しています。
「ジャンヌは両者の意見が対立するのを見て彼らに、数の多さ(=イギリス軍の数の多さ)を恐れることはないし、イギリス兵を攻撃するのに困難はない、神は自分たちの企て(=ジャンヌたちがイギリス軍を攻撃しようとする企て)を導いてくださるのです、と申しました。彼女はまた、神がこの企てを導いてくださると確信できないならば、自分はこんな危険に身をさらしているより羊の番をしているほうが良かったとも申しました。これを聞くと彼らはジャルジョーの町へ進撃し、町の郊外を占領して、そこで夜を過ごそうと考えました。これを知ったイギリス側は彼らを迎え撃ち、当初は国王軍を押し返しました。これを見たジャンヌは自分の旗印を手に取り、兵士たちに勇気を出すように励ましながら攻撃をしかけました。彼らは勇敢に戦い、その夜は国王軍の兵士たちはジャルジョーの郊外に野営しました。」
さらにアランソン公は、ジャンヌの戦闘における状況判断に関して次のように証言しています。イギリス軍が占領するジャルジョーの町への攻撃が決定され、その際、ジャンヌが(責任者または総司令官だった)アランソン公にかけた言葉です。
「ジャンヌ自身も私に「進みましょう、優しい公爵様。攻撃するのです」と言いました。私にはこんなに急に攻撃をしかけるのは時期尚早と思えたのですが、ジャンヌは私に「疑ってはいけません。神様のお気に召すときが行動のときなのです。神様が望まれるときに行動しなければなりません。」と言い、「行動しなさい。神は助け給うであろう」とも申しました。」
また、同じ頃起こった有名なパティの戦闘に関しジャンヌの指揮官ぶりを戦士仲間だった騎士のティボー・ダルマニャック(もしくはド・テルム)は次のように証言しています。
「ジャンヌはフランスの兵士たちに向かい、討ち死にしたり負傷したりする者はほとんどいないであろう、と申し、その通りになりました。われわれの中で死者は一人、仲間の貴族だけでした・・・。戦争以外の面では、彼女は飾り気がなくて無邪気でしたが、軍事的な行動や処置、戦闘のことになると、部隊を配置したり、兵士を励ますにしても、一生を戦闘の中で鍛えてきた世界でもっとも賢い指揮官でもあるかのように行動しました・・・。」
また、ランスでの国王戴冠式に向けて進軍していた頃のジャンヌの指揮官ぶりについてこんな証言もあります。当時、会計院の若き検査官で国王のそばにいたシモン・シャルルという人は、
「国王がトロワの町の前面に来たときのことですが、兵士たちは食糧が尽きているのに気が付いて士気を阻喪し、退却しそうになりましたが、ジャンヌは国王に、心配されぬよう、翌日になれば町に入れるでしょう、と申しました。そしてジャンヌが旗印を手に取りますと、たくさんの徒歩の兵士たちが後に従いましたが、彼女は彼らに、堀を埋めるだけの薪の束を作るよう命じました。兵士たちが作り終えて翌日になると、ジャンヌは「かかれ!」と叫んで、薪の束を堀に投げ込む合図をしました。これを見たトロワの住民たちは襲撃を恐れ、国王に使者を送って和議の交渉をしました。国王は和議に応じて入城を果たしました。」
また、ジャンヌは自分が神のように敬われることは徹底して嫌う「愛と正義の戦士」、かつ「神を信じるように命じる指揮官」だったことが次の証言からわかります。ポアティエでの審査を担当した修道士で神学者の一人だったスガン・スガンという人物は、
「ジャンヌがなぜ旗印を手にしているのかと聞かれたときのことをよく覚えています。彼女はこう答えたのです。「自分は剣を使うことを好まないからです。誰も殺したくないのです」と。・・・ジャンヌは神の名をむなしく罵るのを聞いて非常に腹をたて、罵りの言葉を吐く連中を憎みました。彼女は、いつも神様の名を呪う習慣の、あの片足が不自由で勇猛な隊長ラ・イールに、これ以後は神を呪わぬよう、神を呪いたくなったら自分の杖を呪いなさいと命じました。これ以後ラ・イールは、ジャンヌの前では杖を呪うようになりました。」
同じような内容の証言をジャンヌの戦士仲間だったシモン・ボークロアが行っています。
「ジャンヌはカトリック信徒でした。神を畏れることを知っている・・・。私は彼女と一緒にいるときに、彼女に悪さをしようとする気持ちが起こらなかったことを思い出します。ジャンヌはいつも若い娘たちと一緒の部屋に寝て、年取った女性と寝るのを好みませんでした。暴言や神を罵るような言葉を嫌いました。神を呪ったり罵ったりする人々を叱っていました。戦場では彼女は仲間が略奪を行うのを許そうとはしませんでした。ある時、スコットランドの兵士が略奪した肉を彼女が食べていたことを告げ口すると、彼女は大変怒り、この兵士を叩こうとすらしました。彼女は売春婦たちが軍隊の中で兵士たちと一緒に行動することを認めませんでした。ですから、ジャンヌの近辺にはそういう女たちはいられませんでしたが、もし見つければジャンヌは立ち去らせました。兵士たちが妻として望むなら別ですが。彼女は、神を畏れ、神の掟を守ることを知り、教会の教えに従う、真のカトリック信徒だったと思います。彼女はフランス人ばかりでなく、敵兵にも憐みの気持ちを示しました。私がそれを知っているのは、長いこと彼女と一緒にいましたし、甲冑をつける手助けもしたからです。彼女は善良な女たちが彼女のところにやってきて、挨拶をし、彼女が腹をたてるような崇敬のしぐさをするのを見ると残念がり、悲しんでいました。」
また、ジャンヌが指揮官として人を勇気づけた言葉も証言で知ることができます。国王配下の騎士だったゴベール・ティボーは、ランスに向けて出発する際のジャンヌの言葉として、
「ジャンヌは国王や兵士たちに向かって、勇敢に進みなさい、そうすれば総てはうまくゆくでしょう。恐れることはありません。だれもあなたがたに危害を加えることはできませんし、何の抵抗にも会わないはずです、と言っていました。さらに、間違いなく自分にはたくさんの兵士が参加してくれるし、随いてきてくれるでしょう、とも申しました。ジャンヌはこうしてトロワとオーセールの町の間に兵士を集結させましたが、皆が彼女に従っていたので大きな部隊になりました。こうして兵士たちは、まったく妨害を受けずにランスに着きました。事実国王はなんの抵抗も受けず、沿道の町々はすべて国王の前に門を開いたのです。」
ジャンヌの見事な騎士ぶりについて、国王の戴冠後、ジャンヌを自分の家に泊めたことでジャンヌと大変親しくなったマルグリット・ラ・トゥールードという夫人は、
「私はしばしば彼女が湯あみや蒸し風呂を使っているのを目にしましたが、私が見ることができた限りでは、彼女は処女だったと思います。その行動から見て彼女は純潔そのものですが、いざ武装をしてとなると違いました。私は、彼女がもっとも優れた兵士同様に槍を持って騎乗するのを目にしています。このために兵士たちが尊敬していたのです。」
また、ジャンヌの「神的」とも言える戦場での行動について当時26歳で「オルレアンの私生児」と呼ばれ、ジャンヌ・ダルクの歴史では「超有名人物」であるジャン・デュノワは、次の証言をしています。
「5月7日のことですが、朝早く、橋頭堡の要塞の外側に陣を構えた敵に対して攻撃をしかけていたとき、ジャンヌは敵の矢で傷つき、肩と首の間に2ピエ(およそ16cm)ほどの傷を受けました。しかし、それにもめげずに彼女は戦闘から身を引かず、傷の手当てもしませんでした。攻撃は朝から夕方の8時ごろまで続き、その結果この日の勝利はおぼつかないほどでした。そのため、私は攻撃をやめて部隊を市内に引き揚げさせようと思いました。その時乙女は私のところに来て、もう少し待ってくれと要求しました。そして彼女自身は直ちに馬に乗って、兵士たちからかなり離れた葡萄畑に入っていきました。この畑の中で彼女は10分間近くお祈りをしていました。そしてそこから戻ると、直ちに自分の旗印を手にして堀の縁に立ちました。すると、彼女がそこに立った瞬間、イギリス兵は震えあがって恐怖に打たれました。一方、フランス国王の兵士たちは勇気を取り戻し、砦をよじ登って堡塁に攻撃を加えましたが、何の抵抗も受けませんでした。そのためこの堡塁は占領され、そこにいたイギリス兵たちはここから逃れ出てみんな殺されました。」
なお、この証言は正確な目撃によるものではなかったようで(ただしジャンヌが畑の中でしばらく祈っていたというのは事実らしい)、ジャンヌの護衛騎士だったジャン・ドーロンによる次の正確な証言で補完しておきます。この証言からはジャンヌ及びジャンヌの旗印が兵士たちを奮起させる魔力らしいものをもっていたことがわかります。ドーロンはそれを知っていたのですね。
「この退却(朝から攻めていたトゥーレル要塞が夕方になっても落ちそうになかったので国王軍は全体として退却しようとしていた)の最中に、そのときまで乙女の旗印を持ち続けてきた旗手は砦の前で立ち止まり、疲れきってしまったために旗印をヴィラールの殿の部下であるル・バスクと言う名前の兵士に渡したのです。私はこのバスクが勇敢な男だということを知っていましたし、この退却の最中には何も悪いことは起きないと思いました。それにこのときは堡塁も砦も敵の手にあったのですが、私はもしジャンヌの旗印が前線に立てられたら、居合わせた兵士たちは彼らが間違いなくもっている情熱にかけて、堡塁の奪取を果たすだろうと想像しました。そこで私はル・バスクに向かい、私が濠に下りて堡塁の城壁の下まで歩いていったら、後に付いてきてくれるように頼みますと、彼はそうしますと答えたのです。そこで私は濠に下り、投石から身を守るために盾に身を隠しながら城壁の足もとに達しました。相棒のル・バスクは濠の手前に残ってしまいましたが、私はすぐ後ろを付いてきてくれるものと信じていたのです。しかし乙女は自分の旗印がル・バスクの手にあって、旗印をもった彼が濠の中に入っていくのを見て旗印が奪われたものと思いこみ、跳んできて、ル・バスクも抗しえぬ勢いで旗印の一端をつかみ取り、「おお私の旗印、私の旗印」と叫びました。そして旗印を激しく振り回しましたので、私の想像では、他の人々はジャンヌが何かの合図をしているように見えたのだと思います。私のほうはそのとき、「ル・バスクよ、お前は約束したではないか」と叫んでいました。すると、ル・バスクは旗印をつかんでジャンヌの手から奪い取って私のところへ来て、旗印を手に立ちはだかりました。この成り行きを見ていた乙女の部隊の兵士たちは、集まり、再び結集して激しい勢いで堡塁に攻撃をかけたので、わずかの時間でこの堡塁も砦も彼らにより占領され、敵軍は抵抗力を失い、フランス兵は橋を通ってオルレアンの町に入ることができました。」

ここで、コレット・ボーヌ氏が著書「幻想のジャンヌ・ダルク」(昭和堂)の第10章「オルレアンの包囲」の中で、ジャンヌの旗印(=軍旗)について考察していることを補足として紹介します。ボーヌ氏は無効裁判でのジャン・ドーロンのこの証言について、「王がジャンヌの護衛につけたジャン・ドーロンは、他の証人以上に魔術の疑いから逸らせることに注意を払って、このしるしの話を違ったように説明している」という理解をしています。ボーヌ氏は、ジャンヌの軍旗を「ジャンヌの武器」として捉え、この武器が実際、どのような効き目(威力)を持っていたか、次のように述べています。
「ジャンヌの軍旗は、まず4月29日、大衆の熱気のなかをオルレアンの私生児(注・・ジャン・デュノワ)に与してオルレアンで行われた入市式の際に翻った。すべての入市式は軍旗の掲揚を伴う。その旗は都市が歓迎する人々の政治的・宗教的な計画を知らせるのに役立つ。しかし、軍旗はとくに軍事的な機能ももっている。ジャンヌが持っていた軍旗、あるいは堀端にまっすぐ立てられた軍旗は、軍隊に活を入れる。そうして、勇気を取り戻させることで、退却しないように、あるいは決戦に挑むよう、彼らを駆り立てるのだ。軍旗があるだけで敵を逃亡させるといわれ、敵はそのあと一生にわたって恐怖に怯える。旗がないときや、ジャンヌが休息をとっているときには、戦況は攻守ところを変え、抵抗が熾烈になる。旗はジャンヌの仲間を守り、そのとき、彼らはある程度彼女の不死身ぶりや彼女の戦いの強運をあてにできる。しかも軍旗は、シモン・ボークロワが述べるように、乙女がいなくても、あるいは他の人が旗を持っていても、幸運をもたらしたようである。旗がその効力を失ったとき、ジャンヌは皆から離れて祈り、攻撃を再開する。すべての軍事的な標章がそうであるように、軍旗は命令を伝えることができる。トゥレル要塞の占領のとき、ジャンヌは祈ったあと、次のように言ったといわれる。「私の軍旗の尻尾が塁道に触れたとき、すべてはあなた方のものです。突き進んで、なかに入りなさい」。そのしるしが上がると、イギリス人は抵抗する力をまるっきり失い、フランス人は「まるで階段でも登るように簡単に山のような塁道を」登ったが、「神業でもなければ、どうしてそんなことができたか理解できなかった」(注・・「乙女の年代記」)。

また、同じくデュノワはパティの戦いにおけるジャンヌの名指揮官ぶりについて次の証言を残しています。
「しかし、イギリス軍はボージャンシーに囲まれていた仲間を救援する力はなかったので、この城がすでに陥落してフランス国王に降伏していると知ったときに、残されたイギリス軍は一つの部隊に結集しました。そのためフランス側はイギリス軍が戦闘体形を整えたと信じこみ、フランス軍は戦列を作ってイギリス側の攻撃を待つ準備をしました。そのときアランソン公がリシュモン元帥や私やその他の隊長たちを前に、ジャンヌに向かってなすべき方策を尋ねました。彼女は声高に答えました。「皆、良い拍車を付けておくように」と。これを聞いて同席した者たちは申しました。「何を言うのか。敵に背を向けるのか」と。ジャンヌは答えました。「違います。守りきれないで敗れるのはイギリス人のほうです。ですから、彼らを追走するために良い拍車を準備しておく必要があるのです」と。そしてそのようになりました。イギリス軍は敗走し、戦死者と捕虜は合わせて四千余名以上に達しました。
次は再び、ジャンヌの歴史では超有名なアランソン公の証言を3つ紹介します。
ジャンヌはなぜか大砲(当時は、ばねとか火薬とかで石の弾丸を遠くまで飛ばしていた)に詳しくて、遠くの敵の大砲から飛来する石弾の着弾点が読めたようです。
「ジャルジョーの町の攻撃のときのことですが、私がある場所にいるとき、ジャンヌが急にその場所から身を引くように命じました。「あの武器が―と町の中にすえられた武器を指しながら―あなたを殺しますよ」と。私は急いで身を引きました。するとすぐさま、私がそこから身を引いた箇所でだれか殺されました。リュデという男でした。私はこのことに非常な怖れを感じ、この事件以来ジャンヌの言葉に驚威を覚えるようになりました。」
2つ目は軍人として指揮官として、とても勇敢だったジャンヌの姿です。
「シュフォール伯は私に交渉したいと呼びかけてきました(敵の指揮官がフランス軍の責任者だったアランソン公に交渉してきたこと)。しかし、彼の申し出は通らず、攻撃は続けられました。ジャンヌは旗印を手に梯子に登りました。この旗印は切り裂かれ、彼女自身も頭部に石弾を受けましたが、弾は兜に当たって砕けました。彼女自身は地面に倒されましたが、立ち上がりながら兵士たちに叫びました。「友人たちよ、進みなさい。わが主はイギリス人たちを罰し給うたのです。今や彼らはわれらの物です。勇気を出しなさい!」。―するとたちまち、ジャルジョーの町は陥落し、イギリス兵は橋の方に退却しました。フランス兵はこれを追撃して、この追跡によって千名以上のイギリス兵が戦死しました。」
アランソン公の3つめの証言は、フランス軍がパティの戦いで勝利することになった最大の要因とも言うべき、援軍としてやってきたリシュモン元帥の部隊に対し、ジャンヌが仲間を説得してリシュモン元帥を快く迎え、フランス軍の士気と戦力を一気に強化した采配についてです。
当時、リシュモン元帥は国王から遠ざけられており、国王からリシュモン元帥を仲間として受け入れないようにとの命令が出ていた。この時、ジャンヌが国王の命令に従ってアランソン公たちと一緒に引き揚げてしまったら、オルレアン解放後、撤退を余儀なくされていたイギリス軍を追撃するどころか、増援を得たイギリス軍によって逆にフランス軍の方が壊滅させられたかも知れなかったのです。
「翌日、私どもはボージャンシーの町に向けて進みましたが、途中の平原で国王のほかの部隊と出会ったので、ボージャンシーにいたイギリス軍に攻撃をかけました。攻撃をかけるとイギリス人は町から部隊を撤退させて城に籠りました。そこで彼らが出られないように警備の兵士が配置されました。私どもが城の前面にいたとき、元帥殿が兵士を率いてやってきたという報告が届きました。私自身やジャンヌ、それに部隊の隊長たちも、(リシュモン元帥と戦列を組まないように)町から退く方針には不満でしたが、元帥殿を仲間として受け入れないようにとの命令が出ていたからです。私はジャンヌに、もし元帥が来たら私は立ち去ると言いました。翌日になると、元帥殿が到着するより前に、イギリス兵の大軍が近づいているという報告が入り、その軍にタルボット殿が付き添っていて、敵の兵士たちは「攻撃準備!」と叫んでいました(という報告でした)。するとジャンヌは私に―というのは私は元帥殿が到着したために引き揚げたがっていたからです―今は助け合うことが必要なときです、と言いました。結局イギリス軍は和議に応じて城を明け渡し、私が与えた通行許可証を持って引き揚げていきました。このとき、私は部隊の中で国王の代理でしたから。イギリス軍が撤退している間に、ラ・イールの仲間の誰かがやってきて、私と国王軍の指揮官たちに向かい、イギリス軍が近づいてきていて、間もなく衝突することになるだろう。千名近くいるはずだ、と申しました。これを聞くとジャンヌは、この兵士の言うことを問いただし、それがわかると元帥殿に申しました。「立派な元帥殿、あなたは私の命令でお出でになったのではありません。しかし、お出でになった以上歓迎いたしましょう」
リシュモン元帥とジャンヌが一緒に戦ったのはこの時のたった一回だけでしたが、国王がリシュモン元帥を遠ざけたりせずにジャンヌやアランソン公らの国王軍に編入していたら相当に強大な国王軍が誕生し、ランスでの国王戴冠後、そのまま首都パリをなんなく解放できたろうと思われるからです。事実、ジャンヌが亡くなって5年後、国王はリシュモン元帥の力でジャンヌが生前望んだ通りパリを解放しています。
「ジャンヌは優れた軍人、戦士だったのだなあ」と私たちに有無を言わさず感じさせるジャンヌの有名な行動を、国王にジャンヌの護衛を命じられてからずっとジャンヌに付き添い、ジャンヌがコンピエーニュで捕虜になった時も一緒に捕虜となった誠実で勇敢な騎士ジャン・ドーロンの証言を取り上げます。
ジャン・ドーロンはアランソン公やデュノワ伯のように身分や地位が高い人物ではありませんでしたが、ジャンヌに感銘を受け、最後までジャンヌを支えた「超かっこいい」人物なのです。ジャンヌの生涯を研究するとこういう立派な人物がいたという事実を知ることができ、とても嬉しい気持ちになります。
「しかし、私が眠りに就きはじめたとき、突然乙女は寝台から起き上がり、大きな音をたてたために私は目が覚めました。そこで私が、何をしたいのですかと尋ねると、彼女はこう答えました。「本当に、私のお告げはイギリス兵を攻撃せよと私に命じるのだけれど、かれらの砦に立ち向かうべきか、砦の補給をするはずのファストルフに向かうべきかがわからないのです」と。これに対して、私は直ちに起き上がり、できる限りの速さで乙女を武装させました。私が乙女を武装させている間に、われわれは大きな音や町の人々の叫び声を耳にしました。敵方がフランス兵に大損害を与えたというのです。そこで乙女と同じように私も武装を整えました。そうしている間にも、私が気づかぬ間に乙女は部屋を抜け出して、通りに飛び出しました。そこで彼女は馬に乗った従者を見出すと、その従者を馬から降ろして自分が飛び乗りました。そしてできる限り迅速に、大きな音のしているブルゴーニュ門に馬を乗りつけました。私もすぐに乙女の後を追いましたが、私が駆けつけるより早く彼女は門に到着していました。この門に到着したとき、われわれはひどい傷を負った町方の一人の兵士が運ばれてくるのを見かけました。すると乙女は運んでいる人々にそれはだれなのかと尋ねました。人々がフランス人だと答えると、彼女はフランス人の血が流れるのを見たときは、いつも髪の毛が逆立つ思いだった、と申しました。この時点では、乙女と私、それに何人かの仲間の兵士は町の外に出ていて、フランス兵を助けてわれわれのできる範囲で敵を倒そうとしていました。しかし、いったん町の外へ出て見回すと、こんなたくさんの仲間の兵士が集まったのは見たこともないのに気がつきました。われわれはただちにサン=ルー砦と呼ばれている敵の強力な堡塁に立ち向かいました。砦はたちまちフランス兵の攻撃を受け、攻撃側はほとんど損害を出さずに砦は攻略され、敵側は砦の中で全員が討ち死にするか、捕虜となり、この砦はフランス軍の手に落ちました。
次は、当時のイギリス軍を心底、恐怖させたと思われるジャンヌの勇猛さについて同じくジャン・ドーロンの証言です。オルレアン解放戦の一コマです。
「フランス兵が(いったん攻撃をやめて撤退するため、占拠していた)サン=ジャン=ル=ブランの砦から引き揚げて川の中州に入ろうとしたとき、乙女とラ・イール(当時のフランス軍の中で最も勇猛だった名高い歴戦の軍人で部隊長)が二人で、それぞれ一頭ずつ騎馬を引いて、この中州の反対側から船でやってきて、すぐに手に槍を持って馬に飛び乗りました(撤退する兵士たちを守るため部隊のしんがりに就こうとしていた。ジャンヌは危険な任務である殿を率先して務めていた)。敵が(オーギュスタン)砦から出て仲間の兵士たちに攻めかかるのを見ると、乙女とラ・イールは彼らを守るために(敵の)前面にいたのですが、すぐに槍を構え、先頭に立って敵に打ちかかりました。すると兵士たちも二人にならい、敵に打ちかかったので、そのあげく敵を退却させてオーギュスタン砦に逃げ込ませることになりました(この後、二人のイスパニア戦士の活躍でフランス軍は砦に激しい攻撃を続け、この砦をこの日のうちにあっという間に占領してしまった)。
勇猛果敢な歴戦の軍人ラ・イールに負けるとも劣らないジャンヌは当時まだ17歳で、約4か月前までフランス辺境のドンレミ村で農夫の娘として糸紡ぎや羊の番をしていたなんてとても信じられませんね。
ジャン・ドーロンの貴重な証言はまだ続きます。なにせ国王の命令で護衛のためジャンヌの従者になっていた人物なので証言が詳細で、かつリアルです。ジャンヌの指揮官ぶりについてドーロンの証言をもう一つ。国王によってパリ攻撃が中断させられた後、ジャンヌはブールジュに滞在して休養または暇を持て余していましたが、1429年の11月になって、ブールジュの北東にあってイギリス軍によって占領されていたラ・シャリテの町を取り戻す作戦が行われ、ジャンヌにも参加が求められました。ラ・シャリテ攻撃前にサン=ピエール=ル=ムーティエを占領する戦いが行われました。この時のジャンヌの様子や指揮官ぶりについてドーロン証言です。この証言はあまり取り上げられることはありませんが、少人数の兵士の戦力しかなかったジャンヌがそれでも果敢に敵を攻めた様子がわかる貴重な証言です。
「乙女と部下たちが町の前面に包囲の陣を敷いてしばらく後に、この町への攻撃が命ぜられました。これが実行に移され、そこに居合わせた兵士たちは町を占領するために全力を尽くしました。しかし町にいる兵士の数が多かったのと、町の頑丈な防備、それに内部にいる兵士たちの頑強な抵抗のために、フランス兵は退却せざるを得ませんでした。そのとき私は踵に矢を受けて負傷していて、松葉杖がなければ立ったり、歩いたりできない状態でしたが、乙女がごくわずかの兵しか伴わないでいるのを見て、何か具合の悪いことが起きるのではないかと思い、馬に飛び乗って彼女のほうに馬を進ませ、たった一人で何をしようとしているのか、どうして他の人々のように退却しないのかと尋ねました。彼女は頭から兜を外した上で、自分は一人ではないし、なお仲間として5万人の部下がいるし、この町を占領するまではここから動かないのだと答えました。このとき、彼女が何と言おうと、彼女の周りには四、五名の部下しかおらず、これは私が確認したことですが、他の者も彼女の状況を同じように見ていました。こんな理由から私はもう一度彼女に、他の者たちと同じように立ち去って退くように申しました。すると彼女は私に、薪の束や柵を持ってこさせて町の周りの濠に橋を作り、皆がもっと近寄れるようにするのです、と命じました。そして私にこう命じながら彼女は高い声でこう叫びました。「全員薪の束と柵を持て!橋を作るのです!」と。この後すぐにこの通りになって橋が作られました。まったく驚いたことですが、町はさしたる抵抗も示さぬまま直ちに攻略されてしまったのです。」
ジャンヌの指揮は味方の士気を一気に高めると同時に、敵の士気を一気に削いでしまうようなものだったようです。
また、ジャンヌは軍人でありながら敵兵の死をとても悲しんだようで、次のような証言があります。当時14、5歳で近習(身辺護衛の役)のルイ・ド・クートがイギリス兵を介抱するジャンヌについて貴重な証言を残しています。
「ジャンヌは非常に信心深く、人を殺すことに心を痛めていました。あるとき、一人のフランス兵が何人かのイギリス兵の捕虜を連れてくる間に、連れている男がイギリス兵の一人の頭を殴った上、死んだ者として放っておきました。これを見たジャンヌは馬から降り、イギリス兵に告解させ、頭を支えてやって力の限り介抱してやっていました。」
また、ジャンヌが初めて王太子シャルルに会った頃から1430年5月コンピエーニュで捕虜になるまでずっとジャンヌ専属の聴罪司祭としてジャンヌに従軍していた托鉢修道会員のジャン・パスクレルによる2つの証言です。一つは、ジャンヌ率いる部隊があたかも「神に守られた軍隊」かのようにイギリス兵に感じられていたことを示す証言です。
「それから数日経って、私はボース平野を通ってオルレアンの町に戻りました。神父たちと幟も一緒でしたが、妨げられることなく一緒にオルレアンに入り、またイギリス兵の見ている前で食料を町に運び込みました。驚くべきことは、武装して戦闘準備を整えて配置されていたイギリス兵全員が、彼らに比べれば小部隊のフランス軍を眺めていたことです。彼らは兵士らを眺め、神父たちが聖歌を歌うのを聞いていました―私は幟を持って神父たちの中心におったのです―。しかも一人のイギリス兵も動こうとせず、私たちの兵士や神父に攻撃を加えませんでした。」
ジャンヌが登場するとフランス軍はたちまちこのような宗教的色彩をもった軍隊、「神に守られた軍隊」に見えるようになりました。イギリス軍の士気を大きく削いだ要因の一つかも知れません。パスクレルはこんな証言をしています。
「ジャンヌがブロワを出てオルレアンに向かうとき、彼女はこの幟の周りに神父全員を集め、神父たちが部隊の先頭に立ちました。彼らの部隊は創造主よ、精霊よ、来りませや、その他の聖歌を歌いながらソローニュの平野の側から出発し・・・」
パスクレルのもう一つの証言は敵兵の死を悲しむジャンヌの姿です。
「私の記憶ではこの日はわが主のご昇天前夜で、この場所で(オルレアン解放戦で最初に攻略されたサン=ルー砦のこと)イギリス兵に大勢の死者も出たのをジャンヌは非常に悲しんでおり、彼らは罪を告解することなく殺されたのだと言って、彼らのために涙をこぼし、すぐに私に告解しました。そして彼女は兵士たち全員に自分たちの罪を告解し、勝ち取った勝利について神に感謝することを、全員の前で奨めるように私に命じました。」

補足として、ジャンヌの軍装についての記述を2つ紹介します。
一つは、1429年2月13日頃、ヴォクルール城の領主ロベール・ド・ボドリクールがジャンヌを王太子シャルルのいるシノンに向けて送り出す時のジャンヌの姿です。
「出発を伝え聞いたヴォクルールの住民たちは、みなで費用を負担して、彼女に甲冑と衣服をおくった。領主ロベールからは、黒い胴着、飾り紐で結びつけられた股引(ももひき)、灰黒色の上衣、拍車のついた上等の褐色革の乗馬靴、黒の直垂(ひたたれ。一番外側に着る上着)、ひとふりの剣などがおくられた。馬はデュランと知人の二人が12フランで買って与えたが、この費用はのちにロベールが支払ってくれたという。ロベールがあつらえた軍装は、もちろん男性用のものであった。・・・二月下旬、ジャンヌは領主ロベール以下の見送りをうけて、ヴォクルール城のフランス門から出発した。・・・ジャンヌはロベールから贈られた身体にぴったりの黒い胴着と股引を着用し、両端に金具のついたつなぎ紐でこれを結んでいた。長かった髪は、両耳とこめかみと首のあたりまででまるくカットされ、襟元も剃りあげられていて、まるで男の子のようであった。」(清水正晴著「ジャンヌ・ダルクとその時代」より引用。このかなり具体的な記述は清水氏の研究によるものと思われます。)
もう一つはコレット・ボーヌ著「幻想のジャンヌ・ダルク」の9章「戦争は女性の顔を持ちうるか」の冒頭に記述されたジャンヌの騎士姿です。
「騎士姿のジャンヌを最初に描写したのは、ギィ・ド・ラヴァルである。それによれば、ジャンヌは白一色の鎧を身にまとい、兜はかぶらず、小さな斧を手にして、癇の強い黒毛の軍馬に跨っていた。ジャンヌの傍らでは気品のある小姓が折りたたまれた彼女の軍旗を持ち、ついで兄と兵士たちが続いた。」
これはオルレアン解放後、6月のジャルジョーでの戦いに赴くころの騎士姿のようです。ただしジャンヌは、4月29日夜の熱狂的な歓迎を受けたオルレアン入城の際は、白馬に乗っていたようです。
ジャンヌの騎士としての身分などについて、コレット・ボーヌ氏は上の記述に続いて次のように書いています。
「この日(1429年6月8日)、ジャンヌはもう数週間前からこの装備を身に着けている。それはポアチエで、神学者たちがジャンヌの使命が本物であると認めたときに与えられたものだった。王はトゥールで百リーヴルかけて完全な武具一式を作らせた。この新参の騎士は、オルレアン遠征に出発する前に、アランソン公との騎馬槍試合で自分の機敏さを存分に披露したり、毎日のように王家の騎士たちと馬に乗って出かけたりした。騎行に際して「彼女はあたかも今まで他のことをしたことがないかのように、きわめて巧みに武具一式を身につけていた。」(「乙女の年代記」からの引用のようです)」
ジャンヌがオルレアンに入城した時、すでに巧みに馬に乗れたことが証言されていますが、このような訓練と言うか練習の積み重ねがあったのですね。 ジャンヌとアランソン公の騎馬槍試合について、レジーヌ・ペルヌー、マリーヴェロニック・クラン共著「ジャンヌ・ダルク」(東京書籍)では次のように書かれています。
「ジャンヌとアランソン侯はいっしょに馬上試合の練習をした。侯はジャンヌの武器の扱い方のうまさに驚き、感心して彼女に馬一頭贈っている。」
ちょっと脱線しましたが、コレット・ボーヌ氏の上の記述の続きに再度戻ります。
「同時に王は、地位と俸給、二人の小姓、二人の伝令官、そして小規模の護衛隊をジャンヌに与えた。しかし、ジャンヌは騎士にはならなかった。騎士になるのは男性で、その多くは貴族の身分に属している。彼らは長い訓練を受けるか、華々しい武功を立てたときに、騎士になるのだった。ジャンヌは農民の女にすぎず、戦いの経験もない。武功を立てるのはまだ先の話である。そのうえ、騎士叙任式も、武具が儀礼的に授与される宗教的な儀式も行われなかった。徹宵の祈りも、騎士の宣誓も、頸への一打ちもなかった。それでも、甲冑、軍旗、剣は念入りにあつらえられた。」
最後に、ジャンヌの「軍指揮官」としての自覚についてです。これまでジャンヌの立派というか見事な指揮官ぶりについて多くの証言を紹介してきましたが、これはジャンヌ自身に軍指揮官としての強い信念、あるいは自覚があったから実行できたと思われます。コレット・ボーヌ氏は上で紹介した「騎士としてのジャンヌ」考察に続き、ジャンヌの「軍指揮官」としての自覚について次のように記述しています。
「女性は(戦争の)被害者になるか、戦士の妻か母になるしかなかった。たしかに14世紀の半ば以来、文学は架空の女戦士の登場人物を生み出し、「男性の心をもった」女傑やイスラエルの女預言者の記憶を思い起こさせていた。しかし実際は、男性の務めである戦争のなかに女性の存在を受け入れられる者など、一人もいなかった。ジャンヌの出現は、皆に驚愕と好奇心をもたらした。さらにある人々には、物事の秩序を脅かす醜聞を前にした拒絶反応を引き起こした。そのうえ、ジャンヌは、女兵士であることだけで満足しなかった。早くも1429年3月22日には、「私は戦闘の指揮官である」と宣言したのである。」
ジャンヌのこの宣言は有名な「イギリス人への手紙」の中でなされました。「イギリス人への手紙」とは、ジャンヌが2月下旬に王太子シャルルと会見した後、ポアチエで神学者から審査を受けている頃の1429年3月22日付けで口述筆記され、実際はその一か月後の4月下旬にオルレアンを包囲するイギリス軍に送られた手紙です。有名なので「軍の指揮官」というくだりまで(=手紙の約前半部分)、紹介してみたいと思います。いろいろな訳がありますが、コレット・ボーヌ氏のこの著書に付録として取り上げられていた訳を引用します。
「イエス・マリア
イギリス王と、汝フランス王国の摂政を名乗るベドフォード公、汝サフォーク伯ギヨーム・ド・ラ・ポール、タルボット卿ジャン、そしてスカール卿トマ、汝ら件のベドフォード公の代官を名乗る者どもよ。天の王に道理を尽くし、天の王である神によってここに遣わされた乙女に、汝らがフランスで占拠し侵犯したすべての忠誠都市の鍵を返せ。彼女は、王の血を要求する(=「王家の血をひくオルレアン公シャルルの釈放を求める」という意味だそうです)ため神によって遣わされたものである。もし汝らが彼女に道理を尽くし、フランスを放棄し、奪ってきたものの代価を払えば、彼女は和平を行う準備を万端整えている。そして、汝らすべて、弓兵、戦士、騎士、その他オルレアン市の前面にいる者どもよ。神の名において汝らの故国に立ち去れ。もし汝らがそうしないのなら、乙女の便りを待っていよ。乙女は、もうすぐ汝らの前に現れて、汝らに大損害を与えるだろう。イギリス王よ。もし汝がそうしないのなら、私は軍の指揮官であり、私は汝の兵士たちをフランスのどこででも待ち受けて、彼らが好むと好まざるとにかかわらず、彼らをそこから退却させるだろう。もし彼らが降伏を望まないのなら、彼らを皆殺しにするだろう。私は天の王である神によって、汝をフランスから追い払うためにここに遣わされている。そして、もし彼らが降伏を望むのなら、私は彼らに慈悲をもって臨むだろう。」
長い引用になりましたが、ジャンヌの決意、意気込みがよく表れていますね。驚くことはコンピエーニュで捕虜になるまでジャンヌはこの手紙にあるように一貫して行動したことです。ジャンヌは「たとえ自分がたった一人になろうとも、イギリス人をフランスから追い払うのだ」と深く決意していたようです。

 コレット・ボーヌ氏はジャンヌの実際の姿や行動や思考などについて探求しながら、それらがジャンヌと同時代の人たちによってどのように伝説化、あるいは神話化されていくかについても考察しています。今回のエッセーの補足として、ジャンヌの軍指揮官ぶり、騎士ぶりについてボーヌ氏がどのような考察をしているか、氏の「幻想のジャンヌ・ダルク」第9章「戦争は女性の顔を持ちうるか」の最後の部分から抜粋して紹介してみます。
「ジャンヌは「ほぼ熟達した指揮官」である。彼女には、そんな様子や力がある。本当にジャンヌは熟達した指揮官だったのだろうか。1429年7月(注・・トロア入城、シャルル7世戴冠式の頃)、「ジャンヌ・ダルク頌」にはもはやそうした慎重さはない。

       敵を逃亡させる将軍なる、
    彼女は城塞や都市を取り戻す
    してまた勇敢で鋭敏なわれらが兵士たちの
    頂点に立つ将軍なり

 ふたつの陣営(注・・国王シャルル7世側と敵対するブルゴーニュ派側)の年代記作者も、ほとんどためらいがない。ペルスヴァル・ド・カニィの作品では、ジャンヌは一人称(このことは指揮官の役割を暗示する)で次のように告げる。「私は要塞を攻略し、王をランスにお連れするつもりです」。また、ブルゴーニュ派である「フランチェスコ会修道士の年代記」では、ジャンヌを「王太子が多くの要塞を占領するのに貢献した指揮官」と呼んでいる。モンストルレは、オルレアンの軍隊に関して問題を提起する。「彼女が軍を指揮したのか、それとも彼女と一緒にいた経験豊かな隊長たちだったのか」。そして、1430年に彼はこう付け加えている。「この乙女ほどに恐れられた戦争指揮官はいない」。
 すべての戦争指揮官は、当然ながら模範的な騎士である。神は彼らに恩寵として、困難に耐え、飢えと渇きに負けずに苦痛と逆境に耐え忍ぶ、強靭な身体を与えた。(略)ジャンヌは頑丈で、やすやすと馬を操った。彼女はかなりの数の馬を所持した。1431年にジャンヌは、軍馬5頭とほかの馬7頭を持っていたと述べており、それはほぼ標準の範囲内である。ジャンヌの騎士としての長所は、ペルスヴァル・ド・ブーランヴィリエの手紙のなかに記され、ほぼすべてのイタリア語文書(カミッラと対比されている)と、オルレアンの証人たちによって強調されている。ジャンヌは「黒毛の気性の荒い大きな馬」を乗りこなしたと、ラ・ロシェルの書記ははっきり述べている。このエピソードは、セル=アン=ベリーで彼女を目撃したギィ・ド・ラヴァルによってもっと詳しく語られている。それによれば、一人の小姓が一頭の黒毛の軍馬をジャンヌのもとに連れてきた。軍馬は棒立ちになった。「乙女」は馬を四辻の十字架像の近くに引っぱっていき、そこで跨った。馬はすぐに落ち着いた。口角泡を飛ばすこの動物のなかに、悪魔を見ない方が難しい。最後はその動物も、神が遣わした女性を通じて、神によって手なずけられる。ほかの年代記作者は、馬上で重い槍を操り、敵の軍隊をかき分けて進む彼女を描いている。
 ほぼ同時代のふたつの文書、クリスチーヌ・ド・ピザン「騎士道の書」とジャン・ド・ビュエイユ「若者」が示すような、騎士に求められる道徳的資質は、3つの能力に集中している。すなわち、勇気、忠誠、そして富にまさる名誉の追求である。ジャンヌは恐れ知らずであった。人々はすぐにそれがわかった。ヘルマン・コナーによれば、ジャンヌの勇敢さは伝染性のものだった。オルレアンで、ジャンヌは「退却することも休憩をとることもなく、騎士のように」第一線に立った。彼女は、神が注意してくれるので、怪我も死も恐れなかったようだ。ジャンヌは、たとえ冷静さを保つことはできても、他の人々と同じく恐ろしかったと述べている。それでも彼女は雄々しく勇敢な「男性の心臓」をもっているのだ。つぎに、主君への忠誠がくる。彼女は、自分の守護聖女たちに、決して王の秘密を明かさないと誓った。そして、すべてのよき騎士のように、富よりも名誉を求める。「歴史概説」によれば、ジャンヌは福音書が命じるように、自分の俸給だけで満足していた。自分のためには何もとっておかず、仲間たちに気前よく与えた。ジャンヌは欲望にかられて戦争をしたのではないのだ。(略)
 軍の指揮権を得ようとすれば、慎重さ、経験、鋭敏な意識、戦いでの駆引きもまた求められる。ジャンヌはこれらをあっという間に身につけた。「彼女は騎士や準騎士がそうするように、戦争について語った。そして、彼女はずっと戦争の中にいた」(注・・ペルスヴァル・ド・カニィ)。無効裁判は、オルレアンの証言者たちの記憶という間接的な手段でこの軍事的な経験に言及している。しかし、話は、聖職者か俗人かによって、民間人か軍人かによって異なっていた。聖堂参事会員ロベール・ド・サルシオは、たいしたことを知らない。「戦いのことについては、彼女はとてもよく知っていたが、ほかのことについては月並みだった」。高等法院付弁護士エニャン・ヴィオルは、ジャンヌが部下を戦闘隊形に配置させるのを見た。「彼女はまた、戦闘における部隊配置に関して、これ以上ないほどに熟練していたといわれている。熟練した指揮官でさえ、それほどうまくはできなかったかもしれない」。また、4人の軍事指揮官も証言しているが、彼らの意見はまちまちである。最小限度に評価する(神の摂理と捉える)立場のデュノワ伯は、ジャンヌの戦争のやり方に、いかなる人間的な才能も熟練も見ず、神の助けだけを見た。デュノワ伯にとって、ジャンヌはほかの指揮官たちとオルレアンに同行しただけだったが、それでもトロア包囲戦のとき、彼女が「2、3人の名の知れた経験豊かな軍事司令官ですら及ばないほど、慎重を期した」ことを認めている。一方、チボー・ド・テルムとアランソン公ジャンは、二人とも、「まるで30年来経験を積んだ、世界でもっとも勇敢な指揮官であったかのように」兵士たちを意のままにし、戦闘を準備するジャンヌの腕前を褒めたたえている。また、無効裁判の最終的な記録が作成されているときと同時期に書かれた「オルレアン包囲戦の聖史劇」は、顰蹙をかうことなく、毅然とした乙女を舞台の上に登場させている。そこでの乙女は、率先して突撃したり、追撃したりし、カルバリン砲(注・・ジャンヌの時代なので大きな石弾を火薬の爆発で飛ばした大砲と思われます)、弩(おおゆみ)、軍槌といった武装を調え、戦闘隊形を定め、自軍を率いて勝利を収める。そして他の指揮官たちが全軍の指揮をとるように求めたとき、ジャンヌは謙虚にこの申し出に同意する。この場面を締め括るのは(ジャンヌの)次の台詞だ。「わが隊はあなたがたのご威光に服します」。(このような台詞が置かれたのは)貴族の戦士にとって一介の女性に従うなど、受け入れにくいことだからだろうか。必ずしもそんなことはない。同じような手続きが「若者」の中で推奨されている。いずれにせよ、この15世紀半ばには、すでに「乙女」はオルレアンを解放した神話的な司令官、あるいは王シャルル7世の中心的な指揮官、さらに少しあとにはイギリス人に対する戦争の「女性最高指揮官」になっていた。
 ジャンヌは当時の騎士道の慣わしから決して逸脱しなかったということだろうか。ある程度の曖昧さはあるが、ジャンヌは騎士道の慣わしを知っていた。彼女がそれを知ったのは、紋章や紋章使用権に関する論考からではなく、物語を通じてである。彼女の認識と他の貴族の認識のあいだには、無視できない隔たりがある。ジャンヌは紋章に無関心である。兄弟たちとは違って、ジャンヌは王から授けられた紋章を決して身につけなかった。(略)ジャンヌは自分の軍隊が農民を略奪することを全力で止めようとした。俸給の支払いを受けていない軍隊、あるいは敵地で行動する軍隊は、住民から徴発する。しかし、王国の地にあって俸給をきちんと支払われている軍隊は、悪しき振る舞いをしてはならない。クリスチーヌ・ド・ピザンは、もし一羽で十分ならば、12羽の鶏を殺してはならないと強調している。そのうえ、鶏の代金を払う必要があるのだ。正しい戦争は適切に遂行されねばならず、ジャンヌは、盗まれたとみなした肉は食べることを拒む。同様に、絶対的ではないにせよ、たいていジャンヌは祝祭日の戦闘の禁止を守る。これは、神の平和、すなわち紀元千年にさかのぼる禁止事項であり、いつも教会法に記されている。オルレアンでは、ジャンヌはキリスト昇天祭を尊重したが、ロワール川の戦闘のあいだは、日曜日に戦うことがあった。その後、9月8日の聖母マリアの生誕祭に、パリへの攻撃を試みている。たしかに、トマス・アクィナスはすでにこの問題(祝祭日の戦闘禁止)に疑問を抱いていた。医者は、必要があれば、もちろん日曜日でも患者を救う。なぜ、戦士が同じようにしてはならないのか。クリスチーヌ・ド・ピザンはまた、旧約聖書にあるように、日曜日に戦争ができると述べていた(たしかに、旧約聖書は土曜日の戦闘を禁じていた)。(略)
 最後に、ジャンヌは和議による降伏と捕虜の買戻しという複雑な仕組みをとてもよく理解している。ジャルジョーとトロアでは、ジャンヌの和議の概念は、戦士仲間よりもはるかに限定的である。ジャンヌはイギリス人に退却の猶予期間を全く与えなかったので、彼らは馬と胴衣、上着のほかは何も持たずにすぐにその場を離れなければならなかった。トロアでは、彼女はイギリス人が捕虜(フランス人)を連れてゆくことを拒絶する。それゆえ、状況を打開するために、最終的に王が捕虜の身代金を支払うのである。ジャンヌ自身にも捕虜がいた。そこで、彼女は敵との捕虜交換を企てた。オルレアン公を解放するために、彼女は「公を取り戻すため、あるいは買い戻すために、こちら側のイギリス人をたくさん捕虜にする」ことを望んでいた。ジャンヌは「そのとき捕虜だったこれらのイギリスの領主たちを」、王が自由に扱わせてくれることを望んでいたのかもしれない。のちに、フランケ・ダラスとあるパリ市民との捕虜交換を試みている。ジャンヌ自身が捕えられたとき、彼女は誰とも約束していなかったと述べているが、身代金が支払われるか、捕虜の交換がなされるかして、釈放されるものと信じていた。通常、戦争捕虜は命を保証されるが、それはまた、捕虜をつかまえた者の影響力と権威次第である。ジャンヌは、彼女を捕えたブルゴーニュ人に誓約することを拒んだ。というのも、彼女は神にしか誓約をしなかったからである。」

 以上は、コレット・ボーヌ氏「幻想のジャンヌ・ダルク」(昭和堂)の第9章「戦争は女性の顔を持ちうるか」からの引用です。ジャンヌの実際、見事な指揮官ぶりとそれについて当時すぐに誕生した伝説、また、これまでなかなか知ることのできなかったジャンヌの騎士としての実際に関する貴重な考察なので長くなりましたが引用して紹介する次第です。

次回は、「ジャンヌ・ダルクはどんな人だったか(2)―弁舌の達人、ジャンヌ―」です。お楽しみに!

第9回 ユリアンナ・アヴデーエワさんと天地真理さん

ロシアのピアニスト、ユリアンナ・アヴデーエワさんと天地真理さんに共通するのはこんなところです!
天地真理さん 「この歌はこんなふうに歌うのよ」(第2回「プロフェッサー天地真理」)
ユリアンナ・アヴデーエワさん 「ショパンはこんなふうに弾くのよ」
どちらにも音楽に対する論理的なアプローチを感じないではいられません。そこで、ユリアンナ・アヴデーエワさんの演奏の特徴を考えてみたいと思います。
アヴデーエワさんの演奏の特徴が最も良く表れているのが2010年ショパンコンクールで演奏したスケルツォ第4番です。この曲は私も練習している曲なのでアヴデーエワさんが曲のあらゆる箇所でしっかりしたメロディーを奏でていることに気づきました。楽譜をじっくり、よく見てみると確かにそのような指示がなされているのです。つまりアヴデーエワさんはショパンが楽譜に丁寧に、あるいは丹精込めて書き込んだ音楽上の表現を恐ろしいほど忠実に再現しているのです。これは「当たり前」と言われるかも知れませんが、私は自分の練習のために往年の名ピアニスト(ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、リヒテル、アシュケナージなど)からキーシンやブーニンなど現代の優れた演奏家まで実に沢山の演奏を聴きましたが、アヴデーエワさんの演奏を上回る人はいませんでした。何故なのかじっくり考えてみました。アヴデーエワさんが往年の名ピアニストより立派な演奏ができる訳がなんとなくわかってきました。アヴデーエワさんのショパンは楽譜の読み取りが実に正確で、深く、誠実です。ここに理由がありそうです!
アヴデーエワさんの演奏の特徴がよくわかるもう一つの演奏がショパンコンクールのファイナルステージで演奏したピアノ協奏曲第1番です。アヴデーエワさんはこの曲で特に、あらゆる箇所から美しいメロディーを抽出する才能を存分に見せてくれます。その才能は多分、ショパンの楽譜に確かに書き込まれたもの、あるいは書き込まれてはいないが論理的にそう読み取れるものを再現する才能だと思います。それゆえアヴデーエワさんが演奏するピアノ協奏曲第1番は「ショパンってこういう音楽なのよ!」と語りかけているような気がします。ショパンコンクールの挑戦者にしてすでにこのレベルの音楽を創り出す才能!!
アヴデーエワさんのショパンを聴いて一番感じることは「作曲者にかなり近い演奏家だ」ということです。アヴデーエワさんが多分ショパンコンクール直後、ロシア・マリインスキー劇場での演奏会でアンコールで弾いたと思われるショパンのマズルカ作品33の4は、「徹底して深い読譜がもたらす美しく創造的な表現」というものを私たちに披露してくれます。どの位美しいのかというと、往年の名ピアニスト、ベネディッティ・ミケランジェリがこの曲の大変美しい演奏を残していますが、アヴデーエワさんの演奏はベネディッティ・ミケランジェリよりもさらに美しい演奏なのです。しかも美しいだけでなくドラマチックな表現も加えていますから本当に驚きです!
2010年のショパンコンクール時点では、アヴデーエワさんは他のコンクールでの入賞経験は多くあっても公的な演奏会はさほどこなしてはいなかったのではないかと思います。従って、ショパンコンクールにおける彼女の演奏には彼女の素顔(=素質、特質)がよく出ているのではないかと思います。では彼女の素顔とはいったい何だろうか?それは、アヴデーエワさんの美しく感動的な演奏の秘密はどこにあるのだろうか?という質問とイコールだと思います。私はその秘密(=素顔)についてうまく言うことができないので、一つの仮説として「楽譜への音楽上の論理的アプローチ」別な言葉で言うと「楽譜への真摯で誠実なアプローチ」があるのではないかと思うのです。そしてアヴデーエワさんは「楽譜を深く読み取ることから高い音楽的表現を生み出すタイプのピアニスト」の好例ではないか。アヴデーエワさんはショパンの曲のあらゆる部分から論理的にメロディーを抽出するような気がします。つまり「楽譜に書き込まれた通りに」、さらには「書き込まれていなくても音の動き、音の模様から当然解釈される通りに」弾いていると思われます。ショパンの場合、楽譜の音楽表現はかなりきっちりしていますから、アヴデーエワさんの楽譜へのアプローチの仕方はショパンの演奏で特に生きていて、そのためアヴデーエワさんの演奏するショパンはあたかもショパンその人が弾いているような錯覚を覚えるのではないでしょうか?「作曲家にかなり近いピアニスト」、これがアヴデーエワさんの特徴だと思います。この特徴はアヴデーエワさんがどこかの演奏会で弾いたベートーベンのワルトシュタインソナタを聴いても強く感じます。本当に美しい演奏で、しかもベートーベンがこの曲に込めた工夫(音楽的発想、チャレンジ、音響実験など)が分かるような気がします。ワルトシュタインソナタは熱情ソナタに比べて人工的な感じがあったので久しく聴いていなかったのですが、アヴデーエワさんの演奏を聴いて改めて「ベートーベンっていいな!」と思いました。
「ショパンはこう弾くのよ」という感じを与えるアヴデーエワさんのもう一つの演奏にプレリュード(マリインスキーTV提供の)があります。嬉しい感情は相当に嬉しそうに、悲しい感情は相当に悲しそうに演奏して、その幅がとても広い!さらに感情の移り変わり(ショパンは特に激しい)の瞬間の短い一時まで美しく再現します。これはアヴデーエワさんが素質として身に着けた「読譜のたぐいまれな才能」がもたらす果実ではないかと思います。アヴデーエワさんは来日した折、NHKのインタビューに「時間がある時はよく楽譜を研究している」というようなことを語っていましたが「なるほどなあ」と改めて思いました。
では「アヴデーエワさんと天地真理さんの関係は?」と言うと、それはショパンのスケルツォ第4番です。私は天地真理さんに最も似合うショパンの曲はスケルツォ第4番だと思っています。そしてこの曲を古今のどのピアニストよりも素晴らしく演奏できるのがアヴデーエワさんです。それゆえ私はアヴデーエワさんの演奏するスケルツォ第4番を天地真理さんに捧げたい気持ちです。
最後に天地真理さんとショパンについて少し補足的に述べてみます。映画「魔性の香り」ではショパンの「ノクターン作品15の3ト短調」が滝村秋子(=天地真理さん)のテーマのように流れます。そしてこのノクターント短調の展開と滝村秋子の描かれ方がほぼ一致しています。多分監督が意識的にこの曲を選んだと思われます。ノクターント短調の前半は人生そのものに不安とためらいを感じている主人公の心模様を写しているようで、途中の悲劇的で緊張した音楽の高まりは映画の突然の悲しい結末、そして「宗教的に」と指示された後半は滝村秋子への祈りの音楽となっています。天地真理さんとショパンの関係は深いようです。(次回のタイトルは「昭和のジャンヌ・ダルク 天地真理さん」です。お楽しみに!)

第8回 私の好きな歌(2)ミモザの花の咲く頃

天地真理さんが1973年に発表した「ミモザの花の咲く頃」は謎の多い曲です。どこが謎かというと
(1)天地真理さんのオリジナル曲で、こんなに名曲なのに、シングル発表もされずに5枚目のアルバムのB面に目立たぬように「ひっそりと!」収録された感じの扱い。一体なぜなんだ!!??
(2)作詞安井かずみさん、作曲・編曲森岡賢一郎さんという当時、その道の大家による実に華々しい、立派な曲なのになぜか「華々しい扱い」がなされなかった点。レコーディング以外で天地真理さんが歌ったという記述も見当たらないのです。もしかしたら当の天地真理さんはこの名曲をたった1回しか歌わなかった???
(3)「ミモザの花の咲く頃」は我が国の歌謡曲ワルツとしては異色とも言えるほど素晴らしい出来栄えで、安井かずみさんと森岡賢一郎さんはどんな相談や打ち合わせをしてこの曲を作ったのか、天地真理さんと森岡賢一郎さんはこの曲の歌い方など何か話し合ったりしたのだろうか?この辺りの経緯はもしかしたら音楽関係者の間では周知のことだったのかも知れませんが、発表から43年後の現在、音楽関係者ではない私にはその辺の情報に全くアクセスできず「ミモザの花の咲く頃」の謎は深まるばかりです。
さて、「ミモザの花の咲く頃」という曲の魅力はどこにあるかですが、
①歌謡曲の雰囲気を大きく越えて、ミュージカルナンバーあるいは親しみやすいクラシック歌曲に近い感じの曲となっている点。曲はショパンのワルツといっても良いくらい完璧なワルツとなっています。どうしてなのか、作曲者である森岡賢一郎さんの経歴を調べたらなんとなくわかってきました。森岡賢一郎さんは若い頃、団伊玖磨氏に作曲を学び、クラシックのオーケストラの指揮も随分なさっていたようですから、このようなクラシック的なワルツを作曲できるのですね!
②「ミモザの花の咲く頃」はなぜか後期ロマン派的な香りのするワルツとなっていること。19世紀後半の音楽の大きな流れであった後期ロマン派の雰囲気を漂わせた感じの曲が1973年(昭和48年)に作られたことも大変不思議ですが、どういう点が後期ロマン派的か、以下、少し説明してみます。
私が「ミモザの花の咲く頃」を聴いてまず浮かんだのは、ブラームスの有名な変イ長調のワルツです。このワルツはいかにもブラームスらしい落ち着いた、心が温かくなるような曲で、「ミモザの花の咲く頃」が醸し出す「愛の確信が生み出す心の充実、安定感」と何か共通するものがあります。分厚い和音が少し不協和を響かせるところが後期ロマン派の作曲家ブラームスの素敵なところです。
「ミモザの花の咲く頃」が描く場面は舞踏会の様子です。ミモザが咲くのは南フランスらしいのですが、私のイメージではこの舞踏会は東欧、ロシアの舞踏会です。そしてロシアのワルツと言えばなんといってもチャイコフスキーの「花のワルツ」です。「花のワルツ」「ミモザの花の咲く頃」どちらにも「タン、タン、タン|タン、ターンタ|ターーン」というリズムが効果的に使われて、いかにもワルツらしい堂々たる雰囲気を出しています。少し脱線しますが、私のおすすめはマリインスキーバレエによる「花のワルツ」です。バレエ団による集団で踊るワルツも大変見ものです。1993年版は「美の極致!」とも言える美しさで「ミモザの花の咲く頃」が連想させる宮廷舞踏会の優雅な雰囲気が味わえます。また2012年版は「ゾクゾクするような(!!)妖しい美しさ」に溢れ、後期ロマン派の官能的な香りを存分に味わえます。
そして「ミモザの花の咲く頃」を後期ロマン派的にしているのが前奏に出てくる1つの音型です。美しいメロディーが天から舞い降りてくるような「ターーラー」のリズムの4小節に続いて、「ン、ターラ」「ン、ターラ」という可憐な感じの音型が出てきますが、この音型が与える印象というか雰囲気は、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」の有名な「銀のバラの3和音」が醸し出す雰囲気となぜか通じ合うものがあります。「銀のバラの3和音」は何種類かの協和音を和声進行とは全く無関係に並べて順次鳴らして行くために調性が不明確になって何やら神秘的な響きが聞こえてきます。この「神秘的な響き=神秘的な雰囲気」が「ミモザの花の咲く頃」の可憐な「ン、ターラ」からも感じ取れます。森岡賢一郎さんはもしかしたらこの曲を「ばらの騎士」のイメージに合わせて作曲したのではないかと思えてきます。「ミモザの花の咲く頃」が発散する「優雅で豪華な気分」は後期ロマン派の頂点とも言うべき、キンキラキンの「ばらの騎士」にぴったりです!
次に、歌詞の中で私が特に魅かれる言葉をいくつか挙げてみます。
「髪に ミモザの花を 飾りみつめあう」愛を確かめ合う姿が美しいですね!
「半分風に きかれたささやき」秘められた愛、官能的な愛の雰囲気が漂い、この曲を後期ロマン派的にしています。
「今日のために 着てきた 白い服だから 燃える ほほに似合うと あなたに云われて」私はこの歌詞からブラマンクの燃えるような花の絵を思い浮かべてしまいました!表現主義的な描写ですね。
最後に、天地真理さんの歌い方の魅力です。
①美しい、自然なビブラートを惜しげもなくたっぷりと聴かせてくれる点。「天地真理さんのビブラートはこんなにも美しかったのか!」と驚かせ、感動させてくれる曲です。
②先に述べた「タン、タン、タン|タン、ターンタ|ターーン」というリズムを天地真理さんはメゾソプラノで情感たっぷり、大変美しく歌っているわけですが、この堂々たるリズムはソプラノより低音の声に向いているような気がします。実際、天地真理さんはメゾソプラノの音域の美しさ(ビオラの美しさに近いかも!?)をよく出していると思います。「ミモザの花の咲く頃」ではこのリズムは朗々と歌う場面に使われているので十分な声量と歌唱力(=表現力)がないととても歌い通せるものではありません。ここで改めて「天地真理さんは歌唱力と声量の両方を兼ね備えた優れた歌手だった」ということがわかります。
③天地真理さんの歌の技術というか歌の才能を存分に示しているのが「きかれたささやき」「小さな人生」という箇所で、この部分のメロディーラインは前の「舞いおりる朝」「素敵な人よ」のフレーズと同じ繰り返しをせずに、音が少しずつ「上ずるように!」上がっていって、曲に盛り上がりと色彩的変化を生み出しています。天地真理さんはこの重要な箇所をとても力強く、かつ大変美しく歌い切っています。この部分を聴くと天地真理さんが「天性の歌手」と言われる意味がはっきりわかります!
以上、「ミモザの花の咲く頃」の魅力を探ってきた訳ですが、この美しい名曲をこの曲に本当にふさわしく歌えた人は天地真理さん以外にはいなかったのだなあと今、改めて深い感慨に打たれています!!(次回のタイトルは「ユリアンナ・アヴデーエワさんと天地真理さん」です。お楽しみに!)

第7回 樋口一葉と天地真理さん

樋口一葉と天地真理さんに共通するのは「瑞々しい才能のほとばしり」です。樋口一葉が小説家として活動した期間は大変短く、特に「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの名作を次々発表した最後の1年は「樋口一葉の奇跡の1年」と呼ばれています。天地真理さんは1971年10月のデビューシングル「水色の恋」の大ヒット以降、「小さな恋」(72年2月)「ひとりじゃないの」(72年5月)「虹をわたって」(72年9月)「ふたりの日曜日」(72年12月)「若葉のささやき」(73年3月)「恋する夏の日」(73年7月)と今聴いても魅力と新鮮さを全く失わない美しい名曲を連続的に大ヒットさせました。また、シングルだけでなく「ミモザの花の咲く頃」を収録した73年4月の5枚目のアルバムまで数々のフォークや洋楽のカバーも発表しました。わずか2年のうちにいくつものシングルを大ヒットさせ、「独自の美しい歌の世界」をアルバムではっきり示した天地真理さんの歌手としての才能は多くの方から今なお驚きをもって称賛されています。天地真理さんが短期間のうちにこれ程まで密度の高い歌の実績をなしえた事実は「樋口一葉の奇跡の1年」になぞらえて「天地真理さんの奇跡の2年」と言えるかも知れません。天地真理さんは樋口一葉と同様に「瑞々しい才能を一気に開花させた」と言っても過言ではないと思います。
ここで樋口一葉の世界を少しのぞいてみましょう。初めは「たけくらべ」です。流れるような筆致で書かれたこの完璧な名作には名場面、名描写、名文がたくさんあります。この小説の主人公は大人の世界に入る一歩手前の少年少女、龍華寺の藤本信如(ふじもとのぶゆき)と大黒屋の美登利(みどり)の二人です。最初に紹介する場面は、信如にけんかの加勢を頼む長吉とそれを断れずに引き受ける信如のユーモラスな一コマです。
「何、いざと言えば田中の正太郎くらい小指の先さと、我が力の無いは忘れて、信如は机の引出しから京都みやげに貰いたる、小鍛冶の小刀を取り出して見すれば、よく切れそうだねえと覗き込む長吉が顔、あぶなしこれを振り回してなることか。」(新潮文庫版を少しだけ読み易く直しました。以下すべての引用が同様)
少年期の男子の姿をこんなにも生き生きと表現できる一葉に本当に感心します。次は「たけくらべ」の中で私が一番好きな場面です。
「どれ下駄をお貸し、ちょっと見てやる、とて(美登利が)正太に代わって顔を出せば、軒の雨だれ前髪に落ちて、おお気味が悪いと首を縮めながら、四五軒先のガス燈の下を大黒傘肩にして少しうつむいているらしく、とぼとぼと歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利さんどうしたの、と正太は怪しがりて背中をつつきぬ。」
なんて美しい場面でしょう!映画の美しいワンシーンのようです。一葉は「何時までも」を3回も繰り返して美登利の恋心を浮かび上がらせます(登場人物に感情移入すると一葉は同じ副詞や形容動詞を3回も繰り返してしまう特徴があります)。「たけくらべ」には映画を見ているような気持にさせられる描写が随所にあり、一葉のイメージの豊かさと文章の力に驚かされます!
次は「十三夜」の中で「これは凄い!」と思わされる部分です。先方の熱心な求婚に応じて高級官僚と結婚したお関(せき)が、子供が生まれた後、夫の蔑み、罵倒、無視など残酷な仕打ちにとうとう耐えきれず、離縁覚悟で幼子を残して実家に戻り、父母に自分の惨めな境遇を息もつかずに切々と語ります。その場面を一葉はなんと1340字、句点(。)無し、読点(、)だけで一気に書き連ねてしまうのです(引用して紹介したいのですが長すぎてちょっと無理です)。なんという筆力でしょう!興味を持たれた方は一度目を通して見てください。一葉の文章の特徴は「十三夜」においてばかりでなく他の名作でもはっきり見て取れますが、「文章が高速で(!!)流れるような感じ」「文章から無駄な間を省き、伝えたいこと、描きたいことを効率よく簡潔に、実にストレートに書き連ねる点」にあると思います。一葉のスピード性と効率性は現代のコンビニ的現象にとてもマッチしていると思います。つまり樋口一葉は明治時代の作家でありながら恐ろしく現代的な感性を持った作家だと言えるのではないでしょうか。
最後は「にごりえ」です。私はこの小説をサスペンス小説として読みました。一葉がドストエフスキーの「罪と罰」を繰り返し読んだという証言も残っていて、「罪と罰」はサスペンス的なところもあるので、一葉がサスペンス的小説を書いても何の不思議もありません。「にごりえ」には主要な登場人物が三人います。現代のホステスと江戸時代の遊女を足して2で割ったような職業のお力(りき)、お力に熱を上げた結果、家財を失い、お力に捨てられても未練を断てず、仕事にも身が入らないまま貧乏長屋の奥で無気力に暮らす源七、そして源七との間に4歳の子供がいるお初は極貧の生活を懸命に支えながらも夫をだめにしたお力へ強い恨みを抱いています。そして「にごりえ」のどこがサスペンス的かというと、
①伏線を張って悲劇の結末を導いている点
②無理心中という殺人事件を扱った点
③悲劇の引き金となる揉め事を不気味な雰囲気で描いている点
まず①の点ですが、主人公のお力が客の結城に次のように語る場面があります。
「あの水菓子屋で桃を買う子がござんしょ、可愛らしき四つばかりの、あれがさっきの人(源七のこと)の子でござんす、あの小さな子心にもよくよく憎いと思うと見えて私の事をば鬼々と言いまする、まあそんな悪者に見えまするかとて、空を見上げてホッと息をつくさま、こらえかねたる様子は・・・」
お力の苦しい胸の内がよく表されています。源七の子供に対するお力の辛い思いが実は悲劇への伏線となるのです。
次に②の点ですが、「にごりえ」では最後の章で突然、殺人事件という悲劇が起きたことが描かれます。人々のうわさ話の寄せ集めのような語り口を通して一葉は、源七がお力を殺害した後、自害するという無理心中の悲劇を描いて「にごりえ」を終わります。
最後に③の点です。悲劇が語られる最後の章の手前で、一葉は三人の主要な登場人物の救われない絡み合いを描きます。少し解説すると、お力と結城が源七の子供にカステラを買って与えます。子供の太吉はそれを貰って嬉しそうに家に帰ってきます。子供から事情を聴いたお初は激怒し、逆上し、お力のみならず可愛い太吉まで罵りながら、太吉が貰ってきたカステラを家の外に放り投げてしまいます。それを横になって聞いていた源七は「お力が鬼ならてめえは魔王だ!」と残酷にお初を咎め、お初に出て行けと離縁を言い渡します。お初を咎める資格など全くないことは源七自身百も承知なので、お初がお力のことで我が子まで罵るようになってしまったのを見て、たぶん源七は妻と子供を捨ててお力を道連れにするという決心をしたのでしょう。これは「にごりえ」の悲劇的な結末を知ってからの後知恵に過ぎませんが、源七とお初のあまりに激しく悲しい口論が醸し出す何とも言えない深刻な不気味さを描くことで、一葉はまもなく訪れる悲劇を読者に予感させようとしたのかも知れません。一葉はドストエフスキーに惚れ込む作家ですから、このようなサスペンス的予兆はお手の物だったかも知れませんね。
「にごりえ」の主人公お力と天地真理さんが映画「魔性の香り」で演じた滝村秋子は実はとてもよく似ています。お力は源七を落ちぶれさせてしまったという負い目と、元来「さわれば絶ゆるクモの糸のはかないところ」を持った性格のためか生きる気力を失った状態で、自分の今の職業を心から嫌い、貧しかった父母と同じ人生を歩むのかという深い絶望にあります。一葉はこの絶望感をお力に「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ」と言わせています。一方、滝村秋子は夫が愛人を作って自分を捨てたことに自尊心を傷つけられ、心に深い絶望感を抱いています。この絶望感、生きる気力を持てない状態の本当の理由は映画の最後で明らかにされます。映画「魔性の香り」は監督池田敏春、脚本石井隆、主演天地真理、共演ジョニー大倉、この4人の映画に賭ける情熱によって原作を遙かに上回る出来栄えになっています。直木賞作家結城昌治の原作は実にあっさり書かれた短いサスペンス小説で、滝村秋子については、秋子と同棲する江坂の目を通して淡々と描かれるためか印象が薄いのですが、映画では主演の天地真理さんの陰のある表情と気品溢れる雰囲気によって秋子のミステリアスな存在感がくっきりと浮かび上がっています。脚本は原作のサラッとしたストーリーにかなり手を加え、映画にサスペンスならではの複雑さと説得力、そして重量感のある見ごたえを提供しています。この映画のクライマックスは第一級のサスペンスとして後世に長く伝えられると思います。江坂を愛することで再び生きる希望を見出したかのような秋子が、身に覚えのない殺人事件を江坂に疑われ、(愛を失ったと悟って)生きていくことに完全に絶望します。この場面の天地真理さんの演技は本当に(!!)真に迫っています。秋子の深く傷ついた心の原風景が悲しい最後を遂げた母親であることがつぶやかれた後、突然訪れる悲しい結末は、心臓が止まってしまうほど衝撃的で、観客は大変な恐怖と悲痛を味わうことになります。
最後に、「どうして天地真理さんは映画やドラマに出たのか?」という質問をなさる方がいたら、私は次のように答えることができます。天地真理さんの歌った歌でもはっきり確認できましたが、天地真理さんには「表現」に対する強い意欲、衝動があります。歌う時には歌に対して自分の表現をどこまでも追求しました。映画やドラマの役は「演ずること=表現すること」です。ある面で歌う事よりさらに難しい、高い表現力が求められます。天地真理さんが「魔性の香り」で見せた演技力は歌で示した表現力と全く同じものです。天地真理さんは間違いなく「表現する人」であり、様々な芸術分野で自分の感性、自分の思いを表現しようとしたのだと思います。「表現する」ことが最も問われ、さらにその質、そのレベル、その独創性というものが最も問われる厳しい世界が「芸術」です。天地真理さんは歌(音楽)という芸術で、そして映画という芸術で立派な才能、立派な実力を示したというのが真実なのではないでしょうか!(次回のタイトルは「私の好きな歌(2)『ミモザの花の咲く頃』」です。お楽しみに!)

第6回 グスタフ・マーラーと天地真理さん

「マーラーと天地真理さんに一体どんな関係が?」といささか不審に思われるかも知れません。それについてはこのエッセーの最後で。グスタフ・マーラーが1904年に作曲した交響曲第6番の第3楽章アンダンテ・モデラート(以下「アンダンテ」)について少し述べてみます。私がマーラーの曲を聴くのは極めて限られていて交響曲第6番と交響曲第7番で、その他の曲はたまに聴くくらいです。さて、第3楽章「アンダンテ」はどんな曲かと言うと「日没間近の牧場で、一人風景を眺めている人に様々な感情(寂しさ、不安、葛藤、悲しみ、喜び、感謝、希望、期待、失望、恐れといった多様な感情)が湧いてきて、それらがだんだん一つの大きな感情へと統合し、喜びとも悲しみともつかない状態で爆発するかのように劇的に高まります。そして激しい感情の高まりは「大きな感動」に変わり、しだいに静まってゆき、やがて心は平穏と喜びに満たされ、美しく浄化される」こんな内容の曲です。といってもこのような内容が歌詞とか標題で表されているのではありません。オーケストラの音響がそのように語っていると感じ取れるのです。つまり第3楽章「アンダンテ」は「一個人の内面が静かに変化しながら劇的に展開する様を描く」田園交響曲と言えなくもないのです。外部の情景でなく、心の情景を描くとはどこからわかるのか?それは「アンダンテ」の中心になっているメロディーからです。マーラーは、いろいろな部分で構成された変ホ長調の長いメロディーの所々に♭(フラット)や♮(ナチュラル)を用いて半音の色彩的変化を加えます。そうすると、のどかで牧歌的なメロディーが何か人工的な、あるいは精巧なミニチュアのような、はたまたCG的とも言えそうな雰囲気を帯びてきます。あたかものどかな牧歌が現代人の「心の危うさ」を反映して美しく変形した感じなのです。そうです。これは疑似「牧歌」とも言うべきメロディーです。長いメロディーのいろいろな部分が分解され、様々に色づけされ、強調、拡大されて実に起伏と変化に富んだ曲として展開されるという、まさに「驚異の音楽」なのです!ベートーベンが交響曲第6番「田園」の5つの楽章で描いた田園の情景とは異なり、たった一個人の「心の動き」を、懐かしさや妖しさが入り混じったような疑似「牧歌」メロディーとそれを基にした音響の魔術で壮大に表現するわけです。さらに凄いのはこの「心の動き」「感情の爆発」をベートーベンの時代の2倍の規模の大オーケストラで表現しようとする点です。ベートーベンの時代の管楽器、弦楽器に加えてベートーベンが使わなかった、あるいはその時代にはなかった楽器がふんだんに使われます。例えば、イングリッシュホルン、バスクラリネット、コントラファゴット、バスチューバ、カウベル(牛の鐘鈴)、シンバル、トライアングル、ハープ、チェレスタなどです。このような多彩で巨大な楽器群が繊細かつ精緻で音色に富んだpp(ピアニッシモ)から「感情の激しく、大きな高まり⇒大いなる感動」のff(フォルティシモ)まで幅広いレンジで鳴らされ、凄まじい音響が出現します。マーラーが「現代音楽の出発点」とみなされるのはこういう所があるからでしょう!「アンダンテ」は誰の演奏で聴くと良いか?という質問をなされる方もいるでしょうから、私としてはロリン・マゼールをおすすめしておきます。前回ご紹介したブラームス交響曲第4番もロリン・マゼールがおすすめです(ちょっと脱線!)。ベートーベンの「田園」が作曲されたのが1808年、マーラーの「アンダンテ」が約100年後の1904年です。100年も経つと音楽はここまで進化するのかと驚かされます。そして、さらに約100年後の2006年には天地真理さんのプレミアム・ボックスが発売されます。なぜか感慨深いです。
ここで皆様にぜひやってみて欲しいことがあるのです。このエッセーの冒頭に掲げた「天地真理さんの笑顔」を見ながら、マーラーのこの「アンダンテ」を一人静かに聴いてみて欲しいのです。「アンダンテ」は「心の美しい浄化」の音楽です。この音楽と天地真理さんの笑顔がなぜかとてもマッチして、音楽の推移とともに聴き手に言いようのない幸福感がもたらされます。いつしかあなたの頬に涙が伝い、あなたは平穏で喜びに満ちた美しい気持ちになることでしょう!マーラーと天地真理さん、不思議な巡り合わせです。
最後に、4コマ漫画でもこのような美しい浄化された気持ちにさせてくれるものがあります。オーサ・イェークストロムさんのコミックエッセイ「北欧女子オーサが見つけた日本の不思議②」の後ろの方に掲げられた「神様に会った」を読んでみてください。どうですか?美しい気持ちになりませんか?ついでですが、オーサ・イェークストロムさんの最新作「北欧女子オーサのニッポン再発見ローカル旅」が出たのでお知らせしておきます。これも笑えます!(次回のタイトルは「樋口一葉と天地真理さん」です。お楽しみに!)

第5回 私の好きな歌(1)「旅人は風の国へ」

私が作詞家松本隆さんを知ったのは遠い昔、森進一さんの「冬のリヴィエラ」(作曲大瀧詠一さん)でした。CMで流れたのがきっかけだったでしょうか。気に入ってシングルを買ったほどでした。昨年、たまたま「ゼロ戦」との関連で松田聖子さんの「風立ちぬ」(作曲大瀧詠一さん)をよく聴くようになり、この作詞も松本隆さんと知りました。そう言えばこの2曲どことなく似ていますよね。そして最近、天地真理さんの「旅人は風の国へ」を聴いたところ、なんとこの曲も松本隆さんの作詞と知って大いに感動しました。この曲を一度聞いただけでその素晴らしさの虜になってしまったからです。この3曲を聴き比べると、1982年発表「冬のリヴィエラ」81年発表「風立ちぬ」79年発表「旅人は風の国へ」と、時を遡るにつれて曲の感じがだんだん現代的になっていくように思えます。私には「旅人は風の国へ」は作詞、作曲とも大変素晴らしいと思えるのですが、森田公一さん、松本隆さんのどちらにとっても「代表作」として位置付けられていないと思われる点がどうも納得できないところです。
それはさておき「旅人は風の国へ」の魅力はどこにあるか、ですが、
①実際はずーっと同じテンポで歌われているのに、途中からベース(?)の音が強調されリズムの変化が現れ、さらにはメロディーが高音域に一気に展開していくためか、スピード感が3段階で高まる不思議な感じ(初めはアレグレットくらい、次にアレグロ、そしてプレスト!)
②曲のスピード感、高揚感に合わせてたたみかけるように印象的な歌詞を何度も繰り出す点
「人は旅人だから」「愛という名の道を」
「尋ねてごらん」「羽ばたく鳥に」「どこへ行けばいいのか」
「この雨雲の次に」「青空が開けるわ」
「尋ねてごらん」「流れる風に」「どこへ行けばいいのか」
③前奏から高音域の美しいメロディーで始まり、メロディーラインが中音域から低音域、中音域から高音域と流れるように変化しつつ、勢いをつけながら最後は高音域で美しく展開するという点。これは天地真理さんの全音域ファルセットの美しい響きを際立たせるためと思われますし、実際、思いっきり成功していると感じます。
次に天地真理さんの歌い方の特徴を挙げてみます。
(1)まず、「重さ」というものを感じさせない歌い方です。それはバレリーナが「体重」があることを観客に感じさせないように踊る様子に似ています。もともと天地真理さんの声の特徴に「軽さ」がありますが、この曲では「軽さ」に「活発な動き」を与えたので、天地真理さんの歌い方はあたかもボールが地面で跳ね上がって空高く舞い上がる、それを何度も繰り返している感じです。
(2)次の特徴は音色の変化です。天地真理さんは歌詞の文節を、例えば「開けるわ」という文節を「水色」一色で歌うのでなく「水色、水色、黄色!」という感じで歌います。これは音の響き、あるいは音の印象を変化させようという試みと思われます。このような例は「お嫁においで」の「ぼ~くに、う~たう、き~みの、ほ、ほ、え、みー」という箇所でも聞くことができます。この箇所はこんな感じですね「紫~、紫~、ピンク、金色、金色!」。
さらに、天地真理さんは音の魅力、音の響きを追求するあまり単語の発音を多少損なっても構わないという「言葉より音の響き優先」ともとれる歌い方をみせます。「青空が開けるわ」という箇所では、「高音の輝くような美しさを出すのよー!」とばかりに大胆に「(開ける)、わー!」と実に美しい発声を聴かせます!天地真理さんは「音の表現者」「音の芸術家」であると言わざるを得ず、天地真理さんが多くの人たちから「音楽家」とみなされるのはこういうところがあるからではないでしょうか。
こんな風に歌える天地真理さんがどうして歌手を続けることができなかったのか、これは日本史に残る大きな謎と言わざるをえません。
「旅人は風の国へ」のように名曲でありながら発表当時、あまり評価、注目されなかった例としてブラームスの交響曲第4番があります。この曲はブラームス自身「最高傑作」と位置付けていた通り初演から130年以上経った現在、「ブラームスの最高傑作」と誰もが認めるものとなりました。実に多くのクラシックファンから愛されているこの名曲について今更語ることなど何もありませんが、この曲の「新しい点」について少しだけ述べてみます。注目したいのが有名な第4楽章です。まず驚くことは、この第4楽章は思わず一音一音耳をそばだてて聴いてしまうような曲となっていること!ピアノやバイオリン単独の曲ならわかりますが大オーケストラの曲で、聴き手が思わず一音一音意識を集中させて聴いてしまう曲というのはそうあるものではありません。これはブラームスが音の動き、音の響きというものに最高度の緊張と美しさを与えたからで、この楽章だけでも「ブラームスの最高傑作」と称賛されるにふさわしい内容です。そして「新しい点」というのは、シャコンヌというバロック時代の変奏形式が使われているものの何か「新しい響き」がこの第4楽章から聞こえてくる点です。ブラームスは自分が「保守的」作曲家とみなされているのはよく承知していましたが、「実はそうでもないんだよ」と聴き手に「こっそり」囁いているような感じです。例えば、シェーンベルクが1926年に作曲した「オーケストラのための変奏曲」(12音技法というか無調というか、そういう感じの曲)の第3変奏をブラームスのこの第4楽章のどこかに「こっそり差し込んでも」さほど違和感がないだろうと思われる点です。シェーンベルクは「オーケストラのための変奏曲」をブラームスの第4楽章を手本に作ったのではないかとさえ想像できます。ここで浮かび上がるのが「ベートーベン→シューマン→ブラームス→シェーンベルク」という音楽の系譜です。現代音楽の系譜は一般的には「ワーグナー→マーラー→シェーンベルク」とみられていますが「実はそうでもないよ」と普段寡黙なブラームスが笑っているような気がしてなりません。
長らく脱線しましたが、最後に、「旅人は風の国へ」の復活に向けた一つのアイデアを提案してみます。名曲は必ず復活する。これは古今の歴史によく見られます。注目したいのは「旅人は風の国へ」という曲の持つ「可能性」です。この曲がメッセージソング(的)であることは多くの方の認めるところです。これは「ひとりじゃないの」に続く天地真理さん2つ目のメッセージソングと言ってもよいと思います。この特徴と松田聖子さんの「風立ちぬ」をリンクさせると次のようなアイデアが浮かんできます。それは、「旅人は風の国へ」を合唱曲として歌い継ぐというアイデアです。「風立ちぬ」は松田聖子さんから独立して今や合唱曲としてもよく歌われています(スタジオジブリの方ではありませんよ。念のため)。「旅人は風の国へ」の合唱曲としての可能性ですが、歌詞の内容およびメロディーは恋の歌、愛の歌が持つ喜び、悲しみなどの感情表現からちょっと離れていてかなり普遍的な感じです。問答風なところもあって、メッセージソングに聞こえるのはこのためではないでしょうか(そう言えば、問答風なメッセージソングの代表格はボブ・ディランの「風に吹かれて」ですよね。あ!これも「風」だ。ちょっと脱線!)。この点は集団で歌う合唱曲に向いていると思います。そして、この曲の一番の特徴である「躍動感」「中音域から高音域へ生き生きと動くメロディー」がどう受け止められるかですが、「風立ちぬ」は落ち着いた、しっとりした感じが合唱曲としての魅力となっていますが、「旅人は風の国へ」の場合は、メロディーが美しく、アップテンポでスピード感があり、躍動感もあるので若い人たちが多い合唱団で好まれるような気がします。また、「メロディーの高音域展開」は高い歌唱力を持った女声合唱団に好まれそうです。もちろん「風立ちぬ」とは全く対照的な合唱曲となり、「風立ちぬ」より難しい合唱曲となるでしょうが、そこがかえってアマチュア合唱団の意欲をそそるというものです。合唱曲「旅人は風の国へ」は2つの切り口で広めることができます。一つは「メッセージソング合唱曲」、もう一つは「風シリーズ」合唱曲。「風立ちぬ」とセットにして「風シリーズ」合唱曲として取り上げてもらう。この対照的な2曲をセットにしてアマチュア合唱団に歌ってもらったら、これはなんか「かなりの聴きもの」ですよね!合唱曲化がどうして「旅人は風の国へ」の復活になるのか?合唱曲「旅人は風の国へ」の普及とともに「オリジナルはどんな曲なのか」あるいは「オリジナル曲で天地真理さんはどんな風に歌っているのか」、必ず参照されます。ここで天地真理さんの素晴らしい美しい歌声が時を超えて復活するのです!どなたか編曲のうまい人、やってみてくれないかなあ!!(次回のタイトルは「グスタフ・マーラーと天地真理さん」です。お楽しみに!)

第4回 チャングムのような天地真理さん

「宮廷女官チャングムの誓い」全54話の中の第27話「偽りの自白」は、あまりに過酷で辛く悲しい内容ゆえに、涙なしにはとても見ることができないドラマです。この第27話で、苦しみと理不尽さに挫けそうになるチャングムに対して師であり育ての母であるハンサングンが牢の中で力づける言葉があります。「しっかりしなさい!弱音を吐くなんてチャングムらしくないわ!生きて生き延びるのよ!」そして、拷問という厳しい取り調べには耐えたもののチャングムの命を助けるために偽りの自白したハンサングンが、衰弱し流刑地へ向かう船着き場へも歩けなくなってチャングムに背負われて「死への行進」をする場面で、息絶える直前、チャングムに静かに語りかけます。「お前のよさは人より秀でていることではなく、何があっても怯まず、前へ進むことよ。みなが諦めても、お前だけは立ち上がる。お前は投げ出されても、花を咲かせる花の種。だから、人より辛いことが多いのよ」。人の人生にとって一番大切なことは、ハンサングンが言うように優秀なことより「前に進む力があること」「どんなことがあっても立ち上がること」だと思います。チャングムはもともと聡明で利発な子供でしたが、苦難と危機の連続のチャングムを生き延びさせたのは彼女の「前に進む力」であり「勇気」でした。どんなに困難な状況にあっても「前に進む」ことのできた人、それがチャングムでした。
これまでいくつかの例で考えて見ましたが、天地真理さんには可能性が豊かに、本当にたくさん(!!!)あったように思えるのです。しかし、天地真理さんの状況は20代後半から急に「不調」「不遇」「冷遇」その結果として「苦難」「忍耐」「苦闘」というように「暗転」します。光り輝くようなスターダムから突然、地を這うような苦闘の世界への転落は、王から称賛を得るほどの宮廷料理人になったチャングムが一転して済州島への流刑という過酷な世界へ突き落とされる状況とよく似ています。天地真理さんの休養から復帰、地味な芸能活動を粘り強くこなし続けて結婚と出産、そしてその後現在までという経歴や生き方を見ると、天地真理さんは苦難、困難の中でも「決して諦めなかった」「前に進んだ」ことがわかります。チャングム(長今)は幾多の苦難と闘い、乗り越えて、宮廷に見事にカムバックし王から「大長今」の称号をもらいます。しかし、王の死とともにまたまた理不尽な状況によって地位を追われ命を狙われますがチャングムを支えてきた人々の働きでなんとか生き延びて、最後は「市井の人」となります。天地真理さんは不本意にも歌手としてのカムバックに成功しませんでしたが、どんな小さなチャンスでも逃さず大切にし、懸命に活動し続けたように思います。別な言い方をすれば、ともすれば「人生の危機」となってしまうような「若い時代の苦難」をなんとか乗り越えて「生き抜いた」と思えるのです。天地真理さんの20代前半と後半以降を考えたとき、これはとても「偉大なこと」だと思います。休養から復帰、そして結婚・出産までの約10年間に天地真理さんは歌手としてカムバックするための最後の努力をやり切って、演劇、ラジオのパーソナリティー、写真モデル、映画出演と自らの「苦境」「困難」を跳ね飛ばすかのように次々と新しい世界にチャレンジしていきます。こういう姿は「みなが諦めても、お前だけは立ち上がる」と言われたチャングムの姿となぜかオーバーラップしてしまいます!
天地真理さんとチャングムに共通するのは次の点です。①苦境にあっても前に進む力があること②勇気があること③チャレンジ精神があること、です。チャングムのドラマ全部を見るとわかりますが、原題の「大長今」(テジャングム=偉大なチャングム)は王からもらった称号というにとどまらず、チャングムの生き方全部を称えた「称号」です。私はこれにならって天地真理さんの生き方全部を称えて、天地真理さんに「大天地真理」(=偉大な天地真理)の称号を捧げたいと思います。(次回のタイトルは「私の好きな歌(1)『旅人は風の国へ』」です。お楽しみに!)

第3回 ルチア・ポップと天地真理さん

仕事をしながら天地真理さんの歌を頭の中で聴いていたら、ちょっと途切れたところでルチア・ポップの歌うリヒャルト・シュトラウスの「夜」が流れてきました。「そういえば天地真理さんは全音域ファルセットとのことだがルチア・ポップはどうなのだろうか?」そんな疑問が湧いてきたので家に帰ってルチア・ポップの「夜」を聴いたところ、天地真理さんの発声の感じに似ているのでファルセットで歌っているような気もしますが、ソプラノはすべてが高い声なのでどこからファルセットになっているのか、全部がそうなのか本当のところよくわかりません。私はリヒャルト・シュトラウスの歌曲が好きで、特に「献呈」と「夜」がお気に入りです。天地真理さんが「献呈」と「夜」を歌ったらどんな感じだろうなあ。どんな風に歌うかなあ、と勝手な想像を始めてしまいました。「天地真理さんはクラシック音楽教育に疑問を持ちフォークの道を志した」という経歴がいろいろな所で紹介されています。多分本当なのでしょうが、私には天地真理さんがクラシック歌曲を歌うことは「決してあり得ないこと」ではなかったのでは・・という気がします。
そこで『天地真理 クラシック歌曲を歌う』というアルバムを作ってみることにしました。天地真理さんは大変忙しいお体なので極めて異例ですが曲数は6曲だけとし、選曲はまずシューベルトから3曲。1曲目は「野ばら」。軽やかで愛らしい曲想は天地真理さんにぴったりです。次の2曲は歌曲集「白鳥の歌」から「セレナーデ」と「彼女の絵姿」。「セレナーデ」はピアノ伴奏の最初の1小節を聴いたとたん、ハッと息をのんでしまいそうな美しさ!(そういえば天地真理さんにも「想い出のセレナーデ」という震えるような美しさを持った曲がありました。ちょっと脱線!)「彼女の絵姿」はシューベルトがハイネの詩に曲をつけた貴重なわずか6曲の中の1曲。あまりに短く簡素なので、あたかも「絶望と悲しみの感情」が水晶のような透明な結晶となって凝固してしまったかのような曲。同時に現代音楽的な響きも聞こえてくる不思議な曲。シューベルトの曲は天地真理さんの声と相性が好いように感じます。もしかしたら音大付属高校時代、シューベルトは何曲か歌っていたかもしれませんね。次にリヒャルト・シュトラウスから私の好きな2曲「献呈」と「夜」。この2つは青年リヒャルト・シュトラウスの繊細で豊かな感受性がそのまま音楽となって表出された感じの 曲で、かつ後期ロマン派の甘く官能的な香りぷんぷんの曲です。この2曲、天地真理さんはどんな風に歌うだろうか。シュワルツコップやジェシー・ノーマンの「献呈」は近寄り難いくらい究極的で美しい歌唱ですが、天地真理さんはむしろルチア・ポップのようなちょっと可憐で親しみ溢れる感じになるのではないかな。以上の5曲、天地真理さんが自分の声の特質を生かし、高い歌唱技術を駆使し、曲にどんな表現を加えるか、興味津々です!締めくくりの1曲はトマ作曲「君よ知るや南の国」です。天地真理さんにはすでにミュージカルでの名唱があります。この曲はオペラの1曲なので規模は小さくてもいいからオーケストラ伴奏にしたいですね。この曲で天地真理さんは最後に聴き手を暖かく、幸せな、美しい気分にさせてくれるでしょう!なお、シューベルトとリヒャルト・シュトラウスの歌詞はドイツ語でなくいい日本語訳で行きたいです。というのはこのアルバムを買う人たちに多分、中学生や高校生の男子が多く含まれるだろうから、歌詞の内容がしっかり伝わる方が良いと思います。ピアノ伴奏はシューベルトは日本のピアニストで良いですが、リヒャルト・シュトラウスについては一つアイデアがあります。ルチア・ポップのリヒャルト・シュトラウスを伴奏したヴォルフガング・サヴァリッシュさんは当時N響の名誉指揮者で度々来日していました。レコード会社の方が熱心に頼み込めば2曲の伴奏を引き受けてくれたかも知れません。天地真理さんとサヴァリッシュさんの夢の共演、聴きたかったなあ!サヴァリッシュさんは我が国のクラシックファンから大変敬愛されていた方。こんなアルバムが実現していたら当時のクラシックファンからも大きな注目を浴びたかも知れませんね!
天地真理さんの歌うクラシック歌曲は本格的なクラシック声楽家の歌い方とはかなり異なって、「ポップな感じ」になっただろうと想像します。歌っている時の天地真理さんは歌詞の発音が大変明瞭で美しく(英語のカバー曲である「この世の果てまで」でも確認できます)、聴き手に「単語」がはっきり聞こえるように歌うことができました。これはかなり難しいことですよねえ!クラシック歌曲においても天地真理さんは聴く人に、メロディーの美しさだけでなく歌詞(言葉)の美しさもしっかり伝えるような、そんな歌い方をしたのではないかと思います。「ポップな感じ」というのがとても大切で、天地真理さんが歌うクラシック歌曲は「クラシック声楽の新境地!!」なんて絶賛されたかも知れませんね。(次回のタイトルは「チャングムのような天地真理さん」です。お楽しみに!)

第2回 プロフェッサー天地真理

「音楽大学の教授(プロフェッサー)として歌を教えている天地真理さんを見たかった!」この思いが私にホームページを作らせるきっかけとなりました。天地真理さんの歌を聴く度に「この歌はこう歌うのよ」「ここはこんな風に歌うといいわね」なんて教えてくれる声が聞こえてくる気がするのです。なぜこんな感覚に襲われるのか。いろいろと考えてみました。どうも天地真理さんは、詩とそれに付けられた音が最も魅力的で、最も美しいハーモニーを奏でるように音の表現を積極的に追求したようなのです。その一例が1976年9月に中野サンプラザホールで歌った「旅人よ」です。ここで天地真理さんは、ふつうレガートで歌われるこの曲のメロディーをノンレガートのように切って歌っています。しかも、滑らかに連続せず少し途切れる一音一音に優しい繊細な表情をつけるので、メロディーの中の半音階進行と相まってこの歌に何か神秘的な静寂に包まれるような、不思議な、美しい雰囲気を醸し出すことに成功しています。「表現」に対する天地真理さんのこのような積極性はクラシック音楽教育の影響と思われます。過去に書かれた音符を再現する芸術であるクラシック音楽では、楽譜の「読み取り」(解釈)と読み取った内容の「表現」(再現)が極めて重要です。重要と言うより「核心」です。そのため演奏家はその作業に大変な努力を注ぎます。天地真理さんが自分の歌う歌に対して、それが自分のオリジナル曲であろうとカバー曲であろうと全く区別なく、自分なりの読み取りを加えて、より美しい表現をどこまでも追求したことは想像に難くありません。1979年12月に発表した「旅人は風の国へ」は、天地真理さんの高い歌唱力の実証であると共に、天地真理さんが行ってきた表現追求の極致なのではないでしょうか!天地真理さんの歌を聴く度に聞こえる気がするあの声は、もしかしたら、音楽に対する天地真理さんのこのような姿勢が私にも伝わってきているからかも知れませんね。クラシック音楽家のように歌の表現をどこまでも追求した天地真理さんは、正真正銘の芸術家なのではないでしょうか!私は天地真理さんが歌手だけで終わるにはまことにもったいなく、その美しい歌唱法を伝えるためにも声楽の教育者として、音楽の研究者として活躍して欲しかったとつくづく思います。若き天地真理さんが音楽大学で学生相手にピアノを弾きながら発声や歌の表現法を教えている姿、本当に見たかったです!!!(fortissimo)
これ位のことなら歌の専門学校でもいいのではないか、こう思われる方もいるでしょう。しかし私には、天地真理さんはプロフェッサーの称号にふさわしい音楽的業績を成し遂げたと思えるのです。それは、天地真理さんは歌謡曲とフォークに代表されるポピュラー音楽とクラシック声楽の境界に独自の美しい歌の世界を築いたのではないかという点です。ポピュラー音楽の世界とクラシック声楽の世界は普段は何の行き来もなく離れて存在していて、その2つの世界の間には隙間があります。天地真理さんはその隙間(境界)に果てしない広がりを持った豊かで美しい歌の世界を、いわば第3の新たな世界として創り上げたように思えるのです。[ポピュラー音楽の世界] [天地真理の歌の世界] [クラシック声楽の世界]、音楽の宇宙がこんな感じで再構成されたように思えるのです。独立した[天地真理の歌の世界]を可能にしたのは彼女の美しい全音域ファルセットの歌唱法にあることは言うまでもありません!天地真理さんの歌謡曲やフォークのカバーを聴く度に、例えば加山雄三さんの「お嫁においで」、フォークの「なごり雪」「この広い野原いっぱい」「あの素晴らしい愛をもう一度」などを聴くと、天地真理さんは歌謡曲の世界からもフォークの世界からも「独立しているなあ!」という印象が強まるばかりです。「天地真理さんはフォークの世界でも活躍した」こういう説明では説明し切れない感じがします。またミュージカル「君よ知るや南の国」の中で歌われる「恋のすれちがい」を聴くと天地真理さんはそのままクラシック声楽の世界にも移動できそうです。やはりそうなのです![ポピュラー音楽の世界] [天地真理の歌の世界] [クラシック声楽の世界]こう並べないと説明できないのです!この[天地真理の歌の世界]は膨大なレコーディングからもわかるように果てしない広がりを持っていて、そこには何人もの歌手を束にしたほどの膨大な実績がうず高く積み上がっています。まだ十分に解明も検証もなされていません。天地真理さんの歌を一つ一つ鑑賞し、歌い方の秘密を探っていたらどれだけの時間がかかるかわからないほどです!
少し長くなりましたが、私はこの[天地真理の歌の世界]の確立と理論化と伝承を天地真理さんご自身にやって欲しかったのです。このレベルの仕事は音楽大学のプロフェッサーの仕事です。それゆえ私は「プロフェッサー天地」を見たかったと心の底から思うのです。最後に、たとえ「プロフェッサー天地」が陽の目を見ることがなくても天地真理さんにはぜひやって欲しいことがあります。それは、例えば『天地真理の美しいファルセットはこうして生まれた』(仮題)という証言や記録、また『天地真理 私の歌唱法』(仮題)といった歌の解説・指導書などを出版することです。出版してくれるところがなくたって今はwebでお金をかけないで自分で出版することができます。この貴重な仕事は「新しい歌の世界」を築き上げた天地真理さんにしかできないことなのですから。(次回のタイトルは「ルチア・ポップと天地真理さん」です。お楽しみに!)

第1回 20世紀最高の映像

天地真理さんの映像の中で私が一番好きなのが、1972年(昭和47年)の紅白歌合戦に初出場し「ひとりじゃないの」を歌った映像です。バックのオーケストラがまず凄いです。「紅組トップバッターは初出場・・」佐良直美さんの紹介の後、天地真理さんが舞台中央の階段を少し緊張した表情で降りてくると、トランペットと思われる金管楽器がすぐに前奏のメロディーを派手に吹き鳴らします。吹き鳴らすというよりは「吼えます」。金管楽器群が曲の冒頭から派手に吼える曲といえばバルトークのあの有名な曲が浮かんできますが、何か現代音楽を聴くような感じがします。前奏での派手な、高々とした吹き鳴らしは「真理ちゃん、俺たちの音よ~く聞いて、出だしの音程とテンポしっかりつかむんだぞー」なんて叫んでいるように私には聞こえます。この金管楽器の派手な伴奏は途中からますます元気になり、「真理ちゃん、いい感じだー!その調子で行け~!」と懸命に声援しているような感じです。さらに驚くことに、チューバらしき金管(トロンボーンも?)が低音で「うーうー」唸るようにバスのメロディーを大きめの音で吹き鳴らしているのが聞こえます。「トランペットばっかし、いい格好させるもんかー」と唸り声を出しているんですね。低音の金管が大きな音でうーうー唸る様はワーグナーの楽劇の一場面みたいです。この声援を受けて天地真理さんは実に堂々と歌い上げます。この1年歌い続けて声はガラガラになっていますが、吼える金管群に全く負けていないのが凄いです!可哀想に声はガラガラでも丈夫な声帯を駆使して目いっぱいの声量で歌っているのがわかります。そしてこの曲にふさわしい明るく喜びに溢れた表情で見事に歌い上げます。立派ですねえ!21歳になったばかりとはとても思えません!
最後に、この映像の中の白眉といえば天地真理さんの優美で気品に満ちた動きです。歌の合間、紅組のところまで曲の軽快なリズムに乗って優雅に歩いて行き、少し膝を曲げてなんともエレガントな挨拶をします。こんなに音楽的で美しい挨拶って見たことないです!うっとりしますねえ!たったこれだけの動作でも天地真理さんの人柄がよく伝わってきます。若い男の子にとどまらず幼児からおじいちゃん、おばあちゃんにまで愛された理由がわかりますね。わずか2分45秒の短い映像の中にこんなにたくさんの魅力とドラマ!20世紀最高の映像の一つと言って間違いないですね!(次回のタイトルは「プロフェッサー天地真理」です。お楽しみに!) inserted by FC2 system